犠牲の話

海原純子*1「生かされている」『毎日新聞』2022年1月23日


アメリカのメリーランド大学で豚の心臓を人間に移植する手術が行なわれた」ことに因んで。


確かに他に治療法がない難病の治療ができるのは素晴らしいのだが、どこか手放しで喜べない思いがある。医学にかかわる者としては全面的に称賛するのが当然だと思われるかもしれない。だが、遺伝子操作されて心臓を摘出される豚のことが気になってしまう。もし自分が豚の立場だったら、という気持ちになるのだ。反論するすべもないままそんなことをされたらいやだなあ、と。
そんなことをいちいち言っていたら進歩はないということになるのだろうが、医学生のころから動物実験をする時にはいつもどこかに「申訳ない」という気持ちをよぎった。

豚の心臓の移殖の報道を聞いて人間と人間以外の生き物の関係を考えると複雑な気持ちになってくる。人間は生きるために他の生き物を育て殺して食べてしまう。今後遺伝子操作をして都合のいい生き物を生み出す可能性もあるだろう。
人間が、他の生き物の命の犠牲の上に生命をつないでいる事実は否定できない。命を奪わなくとも他の生き物の力によって助けられていることが多いのだと思う。普段はそういうことは忘れているし、考えたりしない。でも他の生き物や他者、それも名前も知らない他者の力によって生かされている自分がいるということを思うと、心の中にじんわりと感謝の思いが浮かんでくる。
「都合のいい生き物を生み出す可能性」の極限的な可能性として、カズオ・イシグロが『わたしを離さないで』*2で描いた、移殖のための臓器を摘出されるために生まれ・育つ人間を想定することができる。さて、食用や臓器移殖といったポジティヴな目的のために殺される動物のほかに、やはり人間のためという名目の下、(感染症の拡大を防止するなどの)ネガティヴな目的のために殺される動物もいるのだった;


安田聡子「香港のハムスター2000匹殺処分に反対運動も「ペットの命は同じように重要」」https://www.huffingtonpost.jp/entry/hong-kong-hamsters-covid-19_jp_61e74d9de4b03874b2de4b59
生田綾「ミンク1000万匹殺処分の現実。世界最大の毛皮オークションは廃業へ」https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5fc1a29cc5b6e4b1ea4b5e62 *3