翻訳家としての鷗外

松永美穂*1「多数の翻訳作品」『毎日新聞』2021年11月14日


曰く、


近代文学黎明期の作家たちのなかで、鷗外は翻訳作品の多さで突出しており、岩波書店の『鷗外全集』で翻訳のタイトル数を数えてみると、優に百二十を超える。しかも留学していたドイツのものに限らず、イギリス・フランス・ロシア・イタリア・デンマークノルウェーなど、幅広い地域の作品が対象となっていることに驚く。鷗外はそれらをドイツ語からの重訳で訳していったが、目についた作品を手当たり次第に訳した印象がある。原作者にはゲーテをはじめ。シェイクスピアイプセンアンデルセントルストイ、ツルーゲネフなど、文豪たちの名が並ぶ一方で、鷗外が訳さなければ日本で読まれることがなかっただろう、現代ではほとんど無名の作家の名前もある。

鷗外の読書と翻訳のスピードは非常に速かった。たとえばゲーテの『ファウスト*2を、陸軍軍医総監として多忙を極めた時期に翻訳している。日記によると明治四十四年七月三日に『ファウスト』の翻訳を依頼されているが、十月三日にはすでに「Faust第一部譯稿を校し畢る」とあり、さらに翌年の1月五日には「Faustを譯し畢る」とある。依頼からわずか半年で翻訳が完了しているのだ。この戯曲は『鷗外全集』では八百七十ページもあり、行にすると一万二千行以上。本職の傍らこれだけの分量を訳せる鷗外の体力と知力に、ただただ感嘆せざるを得ない。
まさに超人的訳業だが、こうした鷗外の翻訳に対しては、「語訳」の指摘も多く、特に『ファウスト』はスキャンダルを巻き起こした。なかでも慶応大学教授だった向軍治*3はある雑誌のなかで、「森博士の独逸語力は中学三年生*4の程度に年功が加はったと云ふだけ」と、鷗外の語学力を散々にこき下ろしている。また、『ファウスト』が上演された際には訳文に品がないという批判が噴出したようだが、これは当時の人々が『ファウスト』に格調の高さを求めすぎていたことにも原因があるらしい。
なお、森鷗外は後に『ファウスト』翻訳に関して、「語訳」を認める懺悔を行っている(「譯本フアウストに就いて」「不苦心談」)。
松永さんの評価;

当時は散々に批判された鷗外訳『ファウスト』だが、いま読んでも日本語があまり古びておらず、素晴らしい訳だと思う。舞台での上演を意識して会話が生き生きと訳されており、無駄がない。たとえば第一部の最後、処刑直前のマルガリーテを救おうとファウストが獄中に踏み込んだ際の迫真のやりとりなど。『ファウスト』の日本語訳は二十種類以上あるが、鷗外訳は現在も輝きを失っていない。
因みに、私は『ファウスト』は相良守峰訳(岩波文庫)で読んだ。