- 作者: 赤染晶子
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2012/12/24
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赤染晶子『乙女の密告』を読了したのは先週のこと。まあ「解説」も含めて100頁強の本ではあるけど。
これは冒頭の一段落。語っているのは、「みか子」。この大学の「ドイツ語学科」の「二年生」*1。このすぐ後、教室に「バッハマン」という独逸人の教授が闖入してきて、2か月後の独逸語「スピーチコンテスト」の課題を発表してしまう。『アンネの日記』*2(=『ヘト・アハテルハイス』)の「一九四四年四月九日、日曜日の朝」の部分を「暗唱」すること(p.8)。ここから、小説は「スピーチコンテスト」へ向かって滑り出すことになる。
乙女達はじっとうつむいている。静かな教室のあちこちからページをめくる音が響く。日本人の教授は黒板を書く手を止める。さっと後ろを振り向く。教室はしんと静まり返る。乙女達は顔を上げる。悠然と微笑み返す。気のせいか……。教授はまた黒板に向かう。乙女達はまたページをめくり始める。ここは京都の外国語大学である。学生は圧倒的に女子が多い。外国語大学の乙女達は女子大の乙女達とは違う。授業中の内職に化粧したり携帯電話をいじったりしない。そんな暇はない。他の授業の予習をする。外国語大学は語学の授業がとても多い。語学の授業は予習が命である。乙女達は常に辞書を引いている。見知らぬ言葉の意味を探しているのだ。(p.5)
「みか子」は「誰よりもアンネを愛している」けど(p.9)、それは「可憐な少女」「ロマンチックな悲劇のヒロイン」としての「アンネ」であって、「ユダヤ人であることに強い自覚を持つ」「アンネ」ではなかった(p.12)。彼女は「スピーチコンテスト」に向けてテクストを暗記していく中で、「ユダヤ人」としての「アンネ」、「ユダヤ人」か「オランダ人」かという葛藤に悩む「アンネ」を発見していく。また、「乙女」たちの内紛を契機として、遂には自分が「アンネ」ではなく「アンネ」を「密告」する立場に立ち得ることを自覚する。
「バッハマン」は「乙女の皆さん、アンネ・フランクをちゃんと思い出してください!」という(p.7)。また、「アンネ・フランクという名前だけを覚えていれば充分です」ともいう(p.86)。「アンネ・フランクをちゃんと思い出」すとは如何なることなのか。ネタばれを恐れず、最後のパラグラフを書き出してみる;
固有名の恢復=想起。それは「ユダヤ人」や「オランダ人」といった一般性を排除することはないが、それに還元されることもない現実存在の恢復、「アンネ」をそうした現実存在において記憶し続けることといえるだろう。また、この小説ではsurvived in translationとでもいうべきことが提示されているともいえる。『アンネの日記』の原文は和蘭語であり、この小説でも『ヘト・アハテルハイス』という和蘭語の原題が何度も反復される。しかし、「みか子」を初めとする「乙女」たちが「暗唱」するのは独逸語訳のテクストである。さらに、『乙女の密告』の読者が出遭うのは(当たり前かも知れないが)日本語である。このような幾重もの翻訳の劫火を潜り抜けても、「アンネ・フランク」という名前は(勿論無傷ではないものの)生き残るのである。
みか子は大きく息を吸う。一番大事な言葉が残っている。アンネの名前である。この日の日記の最後にアンネは、「マリー」というミドルネームの頭文字とともに自分の名前を書いている。『ヘト アハテルハイス』の中でアンネは決して自分の名前を忘れなかった。ユダヤ人であることを思い知らされた一九四四年四月九日の夜さえ、自分の名前を書いたのだ。ユダヤ人であって一人の人間だった。みか子は語る。乙女はもう一度語らなければならないのだ。アンネ・フランクの名前を血を吐いて語らなければならないのだ。
『アンネ・M・フランクより』(p.95)
「解説」は松永美穂さん*3が書いている。「アンネ」と「イエス・キリスト」がパラレルな存在であることを指摘した一節を切り取っておく;
ところで、、『乙女の密告』で最大の謎(enigma)は何といってもエクセントリックな独逸人である「バッハマン教授」であろう。彼は物語空間に揺らぎを起こし、「みか子」に物語を語るよう仕向ける存在なのだが。「バッハマン」を主人公にすれば、さらに何本も小説が立ち上がるような気もする。また、『乙女の密告』を映像化するなら、「バッハマン」を演じるのは竹中直人しかいないでしょとも、思う。というか、キャラクターとしての「バッハマン」は『のだめカンタービレ』*4の「シュトレーゼマン」にインスパイアされている筈だと(密かに)思った。
まるで聖書のように暗唱される「日記」。密告の犠牲者という点で、アンネはイエス・キリストと共通点を持つかもしれない。しかし、聖書では明らかにされる裏切り者の名前(銀三十枚を受け取ったユダ!)を、「日記」の書き手はついに知ることはない。アンネ一家を密告した人間は、当局に引き渡されたユダヤ人一人当たり七・五ギルダーを受け取ったはずで、アンネたちは八人だったから全部で六十ギルダーになるという計算は生々しい。だが、自分たちにつけられたその値段も、アンネはもちろん知らないのである。イエスを裏切ったのはユダヤ人(もっとも、イエス自身もユダヤ人であることを忘れてはいけない)だが、アンネを密告したのはキリスト教徒と考えてほぼ間違いないだろう。ナチ体制のなかでユダヤ人が究極の「他者」にされてしまったことを、十五歳の少女は正確に理解している。(p.99)
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*1:今気づいたのだが、この小説では関西式の二回生という表現は使われていない。
*2:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20140224/1393256418 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20150125/1422209975
*3:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20151228/1451281770
*4:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070123/1169575048 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070124/1169609499 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070130/1170131794 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070319/1174281942 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070826/1188154111 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080111/1199991370 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080423/1208961998 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100212/1265986269 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110814/1313335613