鷗外と慶應など

中沢けい*1「ロマンスの理解者」『毎日新聞』2020年8月9日


「憮然とした表情の鷗外」というのがこのエッセイのテーマであるらしい。
先ず、1910 年6月の『三田文学』に発表された「普請中」*2という短篇が紹介される。「この小説を読んでなんと無愛想な小説だろうと呆気にとられる人もいるにちがいない」。元彼/元カノ同士「らしい」「ドイツ語を話す女性歌手」と「渡辺参事官」が「木挽町から少し入ったところにある」「普請中」の「精養軒ホテル」で再会し、食事するという話。


三田文学*3創刊はこの年*4の五月のことで、鷗外が慶応義塾大学文学科顧問として永井荷風を教授に推挙したのはやはり同じ年の二月のことだった。慶應の教授として与謝野晶子を推挙しようとしたのも、この頃のことだ。与謝野晶子は鷗外の申し出を固辞したうえで鉄幹を推挙してほしいと頼んだそうだが、鷗外は鉄幹はいらないと言ったとか*5。恋を表現できる女性の才能を欲していたのだろうか。樋口一葉が亡くなった時に、その才能を惜しんで葬列に馬に乗って従うことを申し出て遺族にやはり固辞されている。(後略)
そして、明治42年(1909年)に発表された「奇妙な作品」2点。
追儺*6。築地の料亭「新喜楽」に「約束の時間より早く到着した」ら節分の「豆打ち」に遭遇したという話。
「大発見」*7

(前略)「衛生学を修めに来た」と言う主人公にベルリン公使は「人の前で鼻糞をほじる国民に衛生も何もあるものか」と言い放つ。で、主人公は時を経て西洋人も鼻糞をほじくることを文学作品の中に発見するのである。それが「大発見」だ。
なお、鷗外と漱石(『三四郎』)は東京或いは日本が「普請中」であるという認識を共有していたことになる。