「国民」の副産物としての

岩間陽子*1民主化が暴力を強めた逆説」『毎日新聞』2021年2月20日


中西嘉宏『ロヒンギャ危機 「民族浄化」の真相』の書評。
少し抜書きをする。


アジア・ナショナリズムの時代は二〇世紀に始まる。近代国民国家と無縁であったこの地域*2をその鋳型にはめ込むには、まず「国家」と「国民」が発見されなければならなかった。本書は、直接的にはロヒンギャ危機*3を扱った本であるが、「ロヒンギャ」が周辺化されていく過程は、同時にミャンマーが自己と他者の境界線を引き、「私たち」の定義を見出していく過程でもある。おそらくこれは、ほとんどの旧植民地に共通する体験だろう。初めて、地に足のついた脱植民地史を読んだ気がした。しかも東南アジアでは、この過程に日本が深く関わっている。

[第二次世界大戦]当時、ミャンマーは英領インドの一州であった。三度の英緬戦争を経て、インドと全く異なる人種、言語を持つこの地域がインド総督の支配下に入った。イギリスによる開発に引き寄せられ、インド系・中国系など様々な民族が移民としてやってきて定住した。帰属意識や習慣、言語の異なる共同体がモザイク状に共存する「複合社会」が作られた。
ラカイン地方はミャンマーの西部、バングラデシュとの国境地帯である。「ビルマ人」とは異なる帰属意識を持つ仏教系「ラカイン人」が住むこの地域に、ベンガル地方からムスリム移民が陸路流入した。今に至るまで、「バングラデシュからの不法移民」とロヒンギャが思われていることの起源はこの辺りにある。
(略)その後ミャンマーが独立し国民国家化していく中で、たまたま国境線のこちら側に取り残されたムスリムは、「他者」として意識され、「ロヒンギャ」という名前を与えられていった。
(略)ラカインのムスリムは、仏教ナショナリズムを軸とした新生ミャンマー国で、国籍を与えられなかった。「ミャンマー人」が定義される過程で、彼らは「他者」として排除され、迫害の対象になっていく。

皮肉なことに、二〇一一年以後の民主化は、グローバル化と相まってロヒンギャに対する暴力を強めてしまう。集団での運動や動員が容易になり、デマを含めた反イスラーム情報が種々のメディアで拡散し、仏教ナショナリズムが強化された。他方でロヒンギャ側には海外の過激派イスラームの影響が入りこみ、一部に過激な武装勢力が現れた。一六~一七年、このような武装勢力の襲撃事件をきっかけに、ミャンマー国軍の「掃討作戦」が起こった。