全面化できなかった

白石隆*1「頓挫したミャンマーの実験」『毎日新聞』2021年3月11日


ミャンマービルマ)の軍事クーデタの背景についての白石隆氏の解説。
今回の事態は先ず「ミンアウンフライン最高司令官とアウンサンスーチー国家顧問の「権力共有」」の「破綻」、「ミャンマーの「部分的民主制」の実験」の「頓挫」である。


国軍は21世紀に入り、部分的民政移管(民主化)の実験を始めた。そのための仕掛けが08年憲法で、ここでは国軍の政治的地位保障のために、上下両院の各25%を軍人議員が占めること、国防・治安に関わる3閣僚を国軍が指名することなどが定められた。
そのモデルは5年に1度の自由でも公正でもない選挙で選ばれた国民議会議員と国軍代表委員・大統領任命議員からなる国民協議会が、5年に1度、粛々と大統領を選出したスハルト*2時代のインドネシアにあった。ミャンマーの実験は11~16年にはうまくいった。NLDが選挙をボイコットする中、10年に実施された自由でも公正でもない総選挙では国軍の支援する連邦団結発展党(USDP)が議席の約8割を掌握し、かつて軍事政権下に首相を務めたテインセイン氏を大統領に選出した。大統領は自由化、少数民族武装勢力との停戦協議、経済改革などを推進し、アウンサンスーチー氏にNLDの国政参加を促した。
アウンサンスーチー氏は12年の連邦議会補選で下院議員に当選し、15年選挙ではNLDが圧勝した。アウンサンスーチー氏は憲法上の規定で大統領にはなれないため、国家顧問として事実上の政府首班となった。一方、ミンアウンフライン氏は11年に国軍最高司令官に就任した。1956年生まれで、45年生まれのアウンサンスーチー氏より一回り若い。16年に退役年齢を延長し、65歳で退役すると約束した。16年のNLD政権成立後、アウンサンスーチー氏とミンアウンフライン氏は定期的に会合し、政権運営に当たった。それが17~18年ごろからおかしくなった。
3つの「きっかけ」;

その一つのきっかけはイスラム少数民族ロヒンギャ*3民族浄化にあった。国軍は17年、ミャンマー西部ラカイン州から75万人以上のロヒンギャを追放した。国際社会の批判が高まり、ミンアウンフライン最高司令官は民族浄化の責任者として米国ほかの制裁対象となった。なんてことを、と考えただろうが、それでも、アウンサンスーチー氏は19年、国際司法裁判所に出席し、民族浄化は「国内紛争」であると主張して国軍を擁護し、国際的な支持を失った。2人の定期的協議はこの頃から途絶した。
もう一つのきっかけは昨年11月の総選挙におけるNLDの大勝である。NLDは上下院合計で396議席、選挙で争われた476議席の83%超を獲得した。第2党のUSDPは33議席を得ただけだった。USDP(それに同調する少数民族政党など)が議席の3分の1を取れば、軍人議席(定数166)と合わせ、ミンアウンフライン氏が大統領に選出される可能性もあった。NLD大勝でこの可能性は失われた。
さらにもう一つ、NLDの大勝で国軍が憲法改正の懸念を強めた。NLDは20年3月、憲法改正案を議会に提出した。これはUSDPと軍人議員の反対で否決された。しかし、アウンサンスーチー氏は少数民族武装勢力との停戦・和平のため、少数民族に一定の自治を認める「真の連邦制」の導入を打ち出している。民族和平を大義とした改憲機運が高まると、国軍は政治的主導権を失うかもしれない。