二項対立から逃れて

東浩紀氏の憲法改正試論への疑問」http://38870660.at.webry.info/201205/article_1.html *1


東浩紀問題に直接関係する箇所ではないけど、曰く、


北アイルランド英国政府が強行した「令状無き拘束」よりも酷い弾圧があらわれた。信じられない事に、裁判なき追放刑という中世の拷問が復活したのだ。現在、移民系のマイノリティーの人々が要求しているのは、多様性を尊重した文化政策などではなく、人権保障である

移民の人々の要求しているのは、憲法を中心とした西欧普遍主義である。そして現在大統領選の動向をみる限り、恐らくフランスの方向も「市民」の見直しの方向にある。即ち、主権者たる人民の一員であり、出自も宗教も性別も問わない普遍的な政治主体を求めているのだ

先ず指摘しておかなければならないのは、(例えば)仏蘭西におけるムスリムの周縁化には「西欧普遍主義」を前提・口実としたところがあるということだ*2ムスリムは謂うところの「普遍」を拒絶する者どもとして周縁化、場合によっては迫害されるというわけだ。勿論「西欧普遍主義」を闇雲に拒否したり、別の〈普遍〉を宣揚したりすることも詮無きことだろう。寧ろ多文化主義か「西欧普遍主義」かという二項対立、というかそうしたeither/orをこそ問い直すべきなのではなかろうか。そうした文脈においてマークしておきたいのは、小田亮氏(「翻訳としての文化」*3)が鷲田清一『分散する理性』における真理の複数性についての議論を参照しつつ論じている「不完全な(部分的)真理(partial truths)」(James Clifford “Introduction: Partial Truth” in Clifford & Marcus eds. Writing Culture)ということである。曰く、

「不完全な(部分的)真理」という言い方自体が普遍主義者からすれば、形容矛盾であろう。そして(略)普遍主義者は普遍的理念を便宜的に使い分けることを否定せざるをえないのである。部分的であったりすれば真理ではなくなるし、時に応じて用いたり用いなかったりすれば、それは普遍的理念とは呼べなくなるからである。しかし、ここでの「不完全な(部分的)真理」の提唱は、例えば普遍的な人権理念の放棄を言っているのではない。確かに、どこでもいつでも通用するような普遍的な「人間」の概念などありえない以上、「人権」という概念も普遍主義者が想定するような形ではありえない。けれども、第三世界におけるナショナリズムエスニシティ運動からも押し付けられている文化の暴力に抵抗するために人々が持ち出すのは普遍的な人権や自由といった理念である一方、同時に、西欧近代から押し付けられる近代化にともなう理性の暴力に対抗するために人々が持ち出すのは、人間や自由という概念の弾性である。このように、人々の実際の生活の場では、人権などの普遍的理念は臨機応変に便宜的に持ち出されている。
それは、自分たちが全体を決定しそこでの包括的な理念を作り出すという権利を政治的に奪われている人々が、にもかかわらずその与えられた状況でなんとか生活するために臨機応変に編み出している戦術としての折衷主義である。
そして、それは第三世界の民衆だけの問題ではない。、普遍主義と差異主義、虚構派と原初派、個人主義共同体主義といった、近代の合理主義において創られたさまざまな二者択一のジレンマに陥っているわれわれにとっても、その戦術を使わざるをえないということなのである。つまり、理性の暴力か文化の暴力かといった二者択一に囚われるのではなく、それらの理念を臨機応変に使い分けること、そしてそのような生活の場の折衷主義を折衷主義だといって否定しないこと、むしろ折衷主義だからこそ肯定すること、言い換えれば、「不完全な(部分的)真理」という形容矛盾を形容矛盾であるがゆえに肯定することこそが、不毛なジレンマを脱する方途となろう。
そして、そのとき、われわれは、普遍主義者ではなく、文化相対主義者となっている。普遍主義はそのような折衷主義を立場上認めるわけにはいかないが、文化相対主義者ならば普遍的理念を臨機応変に使い分けることができるからである。そして、そのような戦術的な相対主義は、首尾一貫したアイデンティティをもつように主体化されてきたわれわれ近代人(第三世界のエリートを含めて)を、アイデンティティ政治学から解放してくれるだろう。(略)文化の暴力も理性の暴力も、結局、アイデンティティの内容が固有の文化や民族であったり、合理主義的な個人や人類であったりという違いはあっても、首尾一貫したアイデンティティをもつという強迫観念によっているのであり、いわば「アイデンティティの暴力」に変わりがない。しかし、人は、首尾一貫したアイデンティティなどなくても、自己のあるべき姿を想像することはできるのである。もちろん、その自己は明確な境界をもつ全体といきなり結びつけられるような自己ではないし、その想像は、全体を見通した上で計画的に立てられた戦略にもとづくものでもない。しかし、だからこそ、そこに、アイデンティティの暴力から脱け出す道が示されていると言えるのである。(pp.137-138)
理性と暴力―現象学と人間科学 (Phaenomenologica)

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現象学の視線 (講談社学術文庫)

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Writing Culture: The Poetics and Politics of Ethnography (A School of American Research advanced seminar)

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因みに「不完全な(部分的)真理」について、クリフォードは以下のように述べている;

Ethnographic truths are thus inherently partial--committed and incomplete. This point is now widely asserted―and resisted at strategic points by those who fear the collapse of clear standards of verification. But once accepted and built into ethnographic art, a rigorous sense of partiality can be a source of representational tact. (…) (p.7)

(…) In cultural studies at least, we can no longer know the whole truth, or even claim to approach it. The rigorous partiality I have been stressing here may be a source of pessimism for some readers. But is there not a liberation, too, in recognizing that no one can write about others any longer as if they were discrete objects or texts? And may not the vision of a complex, problematic, partial ethnography lead, not to its abandonment, but to more subtle, concrete ways of writing and reading, to new conceptions of culture as interactive and historical? (…) (p.25)
また「アルキメデスの点」なんてもうないという箇所;

(…) We ground things, now on a moving earth. There is no longer any place of overview (mountaintop) from which to map human ways of life, no Archimedian point from which to represent the world. Mountains are in constant motion. So are islands: for one cannot occupy, unambiguously, a bounded cultural world from which to journey out and analyze other cultures. Human ways of life increasingly influence, dominate, parody, translate, and subvert one another. Cultural analysis is always enmeshed in global movements of difference and power.(...) (p.22)
「普遍」性に戻ると、「普遍」性それ自体は、その反対のもの、特殊なるもの、或いは文化的多様性に寄生する仕方でしか存立できないのではないか。文化と文明の差異ということとも関係するのだろうけど、理念であろうが技術であろうが制度であろうが、これらのものの「普遍」性というのはそれが全く文化の違う他者たちによって使用されることにかかっているといえる。いくら当事者たちが俺たちのやり方は「普遍」的だぜと威張っていたとしても、誰も真似ようとしないなら、それが「普遍」的であるとはいえないだろう。さらに、真似をする他者の他者性が抹消されてしまったらば、それはたんに身内(we)の間だけでしか通用しないものとなってしまい、その「普遍」性もまた消え去ってしまう。ということで、「普遍」性に関して、universalという形容詞は不可能であるとも言えるだろう。つまり常にuniversalizing若しくはuniversalizedであるもののみが「普遍」的といえるのではないか。