「純粋禅」への批判(メモ)

日本仏教の可能性―現代思想としての冒険 (新潮文庫)

日本仏教の可能性―現代思想としての冒険 (新潮文庫)

末木文美士*1『日本仏教の可能性』第4章「禅の可能性」で、「禅」批判の文献が幾つか挙げられている(pp.156-157);


ブライアン・ヴィクトリア『禅と戦争』光人社、2001
水田全一『戦闘機「臨済号」献納への道』かもがわ出版、2001
ロバート・シャーフ「禅と日本ナショナリズム」『日本の仏教』4、1995
ベルナール・フォール「禅オリエンタリズムの興起」『思想』960、2004


『禅と戦争』は「日本語の翻訳があまりよくなく、学術的な批判に耐え得るだけの訳になっていない」(p.157)。
ロバート・シャーフとベルナール・フォールの論文−−「従来の純粋禅的な考え方」への批判(pp.160-161)。曰く、


純粋禅というのは、そういう用語が厳密にあるわけではありませんが、例えば、鈴木大拙や、あるいは京都学派によって非常に純化され、理想化された禅のエッセンスとして提示されているものです。禅のいちばん先端的なすばらしいところを取り上げ、それを近代的な解釈によって、例えばヨーロッパの知識人などにも訴えるようなものにしていく。このように、理想化された禅を仮に私は純粋禅と呼びます。
日本の我々は禅の一般的なお寺の雰囲気や、あるいは仏教全体の中での禅の位置づけをある程度わかっていますから、禅というものを特別に美化したり、純粋化、理想化するということには必ずしもならないのですが、海外の人は限られた資料で禅というものを知ることになりますから、非常に純粋化されて美化されたものを禅であると思い込んでしまう。しかも、日本の文化はすべて禅によって成り立っているのだという間違ったイメージを抱いてしまう。
そうすると、現実の日本の文化に触れてみて、今の日本社会の中のいったいどこに禅があるのかということになり、大きなショックを受けることになります。そういうところから、禅を美化し、それに伴って日本の文化すべてを禅と結びつけて考えるような見方をもう一度批判して見直すということが、どうしても不可欠になってきたということです。
禅というのはいろいろ多様な要素を持っている。実際の禅寺を見てみれば、純粋禅だけですべてが動いているわけではない。儀礼的な要素もありますし、また祖師崇拝的な面もある。あるいは、密教的な要素も取り入れられている。また、己事究明がすべてだと言いながらも、実は祖師からの系譜というものを非常に大事にする。いろいろな要素が実は禅の中には入り込んでいる。したがって、それを一面だけから理想化するのはおかしいのではないかというのがフォールやシャーフの基本的な立場です。(pp.161-162)