「ワクチン」の毒は?

マルクス・ガブリエル「精神の毒にワクチンを」in Markus Gabriel、中島隆博全体主義の克服』*1、pp.20-27


曰く、


わたしたちはみな同じ船に乗っている。このことは何も新しいことではない。二一世紀とはそれ自体がパン・デミックであり、グローバル化という感染が拡大した世紀である。新型コロナウイルスが明らかにしたのは、すでにあった事態にすぎない。つまり、わたしたちには、まったく新しいグローバルな啓蒙の理念が必要なのだ。
このことを、ペーター・スローダイクは適切な言葉で表現している。わたしたちに必要なのは、共産主義ではなく、共免疫主義(Ko-Immunismus, co-immunism)である。共免疫主義とは、精神の毒に抗するワクチンを打つことである。つまり、お互いを競争させられている国民文化、人種、年齢集団、階級にわたしたちを分断していくような精神の毒に抗してワクチンを打たなければならない。(p.24)
比喩としての「ワクチン」。「ワクチン」はそれが抗しようとしている「毒」を弱体化させたり不活性化させたりして、或いは(最新のmRNAワクチン*2の場合は)その「毒」に擬態化したものを、生体に打ち込む。まさに毒を以て毒を制する。ということは、「精神の毒に抗」する「ワクチン」も、弱毒化されたものであれ、不活性化されたものであれ、「精神の毒」と「毒」性を共有することになる。
まあ、あらゆる薬というのは、デリダが『散種』で示したようなpharmacon的両義性を有しているわけだのだろうけど*3エンディングも書き写しておこう;

ウイルスのパンデミックの後に必要なのは、形而上学的なパン・デミックである。万人がすべてを覆う天のもとにいて、そこから逃れることはできない。わたしたちは今も、これからも、地球の一部である。わたしたちは今も、これからも、死すべき存在であり、弱いままであり続ける。
だから、わたしたちは形而上学的なパン・デミックという意味での地球市民世界市民になろう。ほかの選択肢を取るとわたしたちは終焉を迎えることになる。そうなると、いかなるウイルス学者であってもわたしたちを救うことはできないのだ。(p.27)