「哲学」の2側面

中島隆博「哲学の使命」in Markus Gabriel、中島隆博全体主義の克服』、pp.14-19*1


曰く、


哲学は役に立たないのではなく、役に立ちすぎたのだ。それは無用の用という役立ち方ではない。哲学は概念を発明し、私たちの社会的想像を規定することで、実際の政治や倫理の手前で、政治的なものや倫理的なものを提供し続けてきたのである。哲学なしに全体主義はその諸概念を用いることはできなかった。しかし、それは哲学に備わる批判の力を矯めることによってのみ可能であったのだ。今こそ、新しい哲学の役立ち方を考えてみよう。それは、批判の力を通じて、全体主義に代わる万人の連帯のための手がかりを示すはずである。(p.19)
このパラグラフを読んで、学術的な言説においても日常的な言説においても、「哲学」という言葉には2つの側面(といっていいのだろうか?)があるな、と思った。ひとつは、或る体系的な仕方で思考を遂行すること。もう一つは、その或る体系的な仕方で遂行された思考の成果(結果)としての哲学。後者の哲学は、自然言語が使用できる限りの万人に利用可能で、(上で挙げられている)「政治」や「倫理」に限らず、あらゆる実践において、出発点として、或いはガイドとして機能することができる。「全体主義」の存立に「役に立ちすぎた」「哲学」。それは(その内容は何であれ)思考の成果(結果)としての「哲学」であろう。「役立ち」に抗する「批判の力」をもった「哲学」、この場合「哲学」とは(その結果はどうであれ)遂行されている思考ということになるだろうか。