熊=阿弥陀(メモ)

以前池田香代子さんが「クマは、この列島にいにしえから暮らしてきた人びとにとって、カミそのものなのです」と発言したことがあった*1。さて熊が神かどうかは知らないが、熊を仏の化身とする観念は確実に存在しているようだ。
鈴木正崇『山岳信仰』から。「立山信仰」の起源伝説を巡って;


立山の開山伝承の最も古い記述は、『伊呂波字類抄』(天養元年〜治承五年〔一一四四〜八一〕)十巻本所載「立山大菩薩顕給絵本縁起」である。それによれば、文武天皇大宝元年(七〇一)に、越中守の佐伯有若が、狩りに出かけて白鷹を逃がしたので、これを追って立山に入ると、熊が現れたので弓で射た。その血の跡をたどり、山を登って行くと玉殿窟に至った。岩屋に入ると熊が黄金の阿弥陀如来に変貌したので、奇瑞に驚いて菩提心を起こし、弓を折り剃髪して僧侶となった。そして慈興と名乗り、山麓の五智寺の薬勢を師匠として、協力して山中に堂社を建て、立山を開いたとされる。この縁起には立山には八大地獄(等活・黒縄・衆合・叫喚・大叫喚・焦熱・大焦熱・阿鼻)があり、亡者の罪状に応じた責苦の等級が定められ、各地獄が十六の別所を持ち、総計百三十六の地獄があると描写された。(pp.168-169)
また、

熊が阿弥陀如来に化す伝承は『三国伝記』「熊野権現本縁事」に記される熊野権現の由来でも同様で、猟師の近兼が熊に矢を射かけ、血糊の後をたどると石窟内で光り輝く阿弥陀如来を拝し、弓矢を折って出家したという。平安時代には阿弥陀如来を本地とする熊野本宮へ参詣して浄土往生を確証しようとする上皇や宮中貴族の熊野詣が盛んに行われた。神仏の使いとしての熊の出現と阿弥陀信仰、そして、十二所権現は熊野と立山の相互交流を物語る。平安時代には芦峅寺岩峅寺の他に立山外宮があり、『若王子文書』嘉応元年(一一六九)に「越中立山外宮 新熊野領」と記され、熊野との関係の深さがうかがえるが外宮の所在はわからない(後略)(p.170)
山岳信仰 - 日本文化の根底を探る (中公新書)

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