「対岸の火事」?

8月に発売される『文藝春秋』には毎年芥川賞の受賞作と選評が掲載されるのだった。
先ず前提としての情報。


台湾生まれの温又柔さん、芥川賞候補に
フォーカス台湾 2017年6月20日 18時55分 (2017年6月24日 19時54分 更新)



(東京 20日 中央社)台湾生まれの作家、温又柔さんの「真ん中の子どもたち」が第157回芥川賞の候補作に選ばれたことが20日、分かった*1。温さんはツイッターに「このノミネートが契機で、この作品が、この作品を切実に必要としてくださる読者とめぐりあえる機会が増えるであろうことが、何よりも嬉しく喜ばしいです!」と喜びのコメントを寄せている。

主催の日本文学振興会は同日付で、候補作4作品を発表。その一つに温さんの「真ん中の子どもたち」が選ばれた。同作は日本人の父と台湾人の母のもと、日本に生まれ育った19歳の女性が中国語を学ぶために上海へ語学留学をするという物語。

温さんは1980年に台北市で生まれ、3歳で東京に移住。2009年に「好去好来歌」で第33回すばる文学賞佳作を受賞、2015年に発表した「台湾生まれ 日本語育ち」では第64回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した。

受賞作は来月19日夜に発表される。

(黄名璽/編集:名切千絵)
http://www.excite.co.jp/News/world_g/20170620/Jpcna_CNA_20170620_201706200009.html


第157回芥川賞は沼田真佑氏、直木賞佐藤正午

2017.07.19 19:35



第157回芥川賞直木賞(主催:日本文学振興会)の受賞作が19日夜、発表され、芥川賞には沼田真佑氏の「影裏(えいり)」が、直木賞には佐藤正午氏の「月の満ち欠け」が選ばれた。

 ともに初ノミネートだったが、沼田氏はデビュー作で、佐藤氏はデビュー34年での受賞となった。
https://thepage.jp/detail/20170719-00000011-wordleaf

そして、


武田砂鉄*2「「在日外国人の問題は対岸の火事」平然と差別発言を垂れ流した芥川賞選考委員の文学性」http://wezz-y.com/archives/49788


温又柔「真ん中の子どもたち」についての宮本輝のコメントに曰く、


これは当事者たちには深刻なアイデンティティと向き合うテーマかもしれないが、日本人の読み手にとっては対岸の火事であって、同調しにくい。なるほど、そういう問題も起こるのであろうという程度で、他人事を延々と読まされて退屈だった。
温又柔さん、応えて曰く、

どんなに厳しい批評でも耳を傾ける覚悟はあるつもりだ。でも第157回芥川賞某選考委員の「日本人の読み手にとっては対岸の火事」「当時者にとっては深刻だろうが退屈だった」にはさすがに怒りが湧いた。こんなの、日本も日本語も、自分=日本人たちだけのものと信じて疑わないからこその反応だよね。

― 温又柔 (@WenYuju) 2017年8月11日
https://twitter.com/WenYuju/status/896057759019302912


武田の文章に戻って;

小説は、台湾人の母と日本人の父の間に生まれ、東京で育った琴子が上海への語学留学に旅立ち、留学先の語学学校で、台湾と日本のハーフである「嘉玲」や、日本で生まれ育った中国人「舜哉」と出会い、対話を重ねていく。国籍、出身地、言語、どこに自らのアイデンティティがあるのかを見つめ続ける。

 宮本の評は、温又柔の小説での試みを根こそぎ否定したつもりなのだろうが、これは小説の否定ではなく人種の否定である。「文藝春秋」誌には受賞作しか掲載されないので、この差別的な選評だけで作品が把握されることはこの上なく酷である。だが、さすがに他の選考委員は、温又柔の小説に肯定的であっても否定的であっても、「対岸の火事」といった、だらしない評を下してはいない。

 「多くの日本語話者の抱く、母語としての日本語の『不動性』にゆさぶりをかけてくる」(奥泉光)、「この小説のもくろみは、日本語を国籍に関係なく身体のなかに解き放ち、そこに東アジアの歴史を重ねることにある」(堀江敏幸)といった選評に宮本の選評が混ざり込むと、むしろこの小説の試みが切実なものであったことが証明されるかのようですらある。


慎重に育んできた自身のアイデンティティを、芥川賞選評という、小説家にとっては大きな意味を持つ場で、あれだけ軽んじられたのだから、憤慨するのは当然のこと。あまりに基本的なことすぎて、ありきたりな説教のようになってしまうけれど、言語や国籍をめぐる「深刻なアイデンティティ」に目を向けずに、一体何が文学だろうか。この小説を「対岸の火事」「他人事」で片すならば、「新進作家による純文学の中・短編作品のなかから、最も優秀な作品に贈られる賞」(日本文学振興会HPより)の選考委員にはふさわしくないと思う。その姿勢は、新進、を塞いでいる。
「真ん中の子どもたち」を読んでいないので本格的に介入することはできない。ただ言っておきたいのは、「言語」とか「国籍」を巡る葛藤とか揺らぎの問題というのは、私或いは私の息子にとっては「対岸の火事」とか「他人事」ではないということだ。或いは、宮本輝からすれば、「日本人」ではないということになるかも知れないけど。まあ、〈非モテ〉から見れば恋愛小説は「対岸の火事」だろうけど、それに対しては、〈非モテ〉の事情を一般化するなという反応が可能だろうけど、それは宮本にも当て嵌まるわけだ。
See also


「【第157回芥川賞】温又柔さんが選考委員「宮本輝氏」の書評に激怒!」http://nakayoshi-togi.com/post/818
若布酒まちゃひこ「温又柔「真ん中の子どもたち」感想/「アイデンティティの安全」を生きるわたしたちの無自覚な暴力」http://www.waka-macha.com/entry/2017/08/13/000550


ところで、「真ん中の子どもたち」というタイトル、サルマン・ラシュディの『真夜中の子供たち』*3を連想させる。誰かこのことを指摘している?

真夜中の子供たち〈上〉 (Hayakawa Novels)

真夜中の子供たち〈上〉 (Hayakawa Novels)

真夜中の子供たち〈下〉 (Hayakawa Novels)

真夜中の子供たち〈下〉 (Hayakawa Novels)