死者こそが究極的な他者ではないかという議論がある(Eg. 内田樹『他者と死者』*1)。ところで、死者とは対極的な赤ん坊(さらには胎児)もまた私に対して強い他者性を突き付ける存在であるといえるかも知れない。私以後の私(の可能性)に対する私以前の私(の可能性)。
陣野俊史氏*2は堀江敏幸『なずな』*3への「解説」で以下のように記している;
子どもを描く、描き方には大きく二通りある。(略)
ひとつは、子どもに子どもの頃の自分を重ねてみる書き方だ。子どもは成長する。なずなだってどんどん大きくなっている。子どもは子どもの視線でいろんなことを経験するのだが、その経験は、ほとんどの場合、表出されないまま、子どもの内部にとどまったままだ。読んだ本、聴いた音楽、印象深かった映画、忘れがたい風景、子どもは素朴な感想文で(半ばは義務的に)それらについて書いたり触れたりすることがあるとはいえ、経験を十全にアウトプットすることがないまま、記憶の淵にしまい込む。大人は子どもが経験しているそうした事象を、自分の経験に照らして再発見する。簡単にいえば、子どもを育てることは、自分の子ども時代を事後的に再体験することである。子どものなにげない挙措に刺激されて、子どもの頃の自分の記憶が連鎖して現れることはよくある。具体例には事欠かないのだが、たとえば、フランス文学者の野崎歓さんの書いた『赤ちゃん教育』や『こどもたちは知っている』は、わが子が経験する文化的事象を何十年か前の自分の、ほとんど忘れていた経験を参照しつつ描いた本なのだ。(後略)(pp.455-456)
そこ[『なずな』]にはふたつめの子どもの描き方がある。子どもはまだ「赤ん坊」と呼んでいいほどの月齢で、その子の経験を自分の経験として確認しようがないのだ。当たり前だが、私たちは、赤ん坊の頃の記憶を持っていない。だから、赤ちゃんの記憶を自分の記憶として確認することができない。私たちは赤ん坊を見る人間にしかなれない。世話して観察する人間にしかなれないのだ。
このとき、もし赤ん坊を育てたことがある人間ならば、『なずな』の主人公に同一化することができるだろう。粉ミルクの分量や、ミルクを飲ませた後、赤ん坊の身体を起して、げっぷを出させる動作とか……。だが、そうした一連の行為は、とても記録させにくい。ちなみに、育児日記と称するものを私もつけてみようとしたころがあるのだが、なずなぐらいの月齢の子ども*4を育てる日々は、戦場でのそれに等しい。優雅に「日記」などつける余裕などまるでない。『なずな』の冒頭で主人公がボヤ騒ぎを起こすが、彼の疲労はよくわかる。でも「わかる」だけだ。赤ん坊を育てる日々の忙しさの詳細は、記録することさえ難しい。(p.458)
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