赤瀬川原平

朝起きてMixiを更新して、赤瀬川原平(aka 尾辻克彦)氏*1が亡くなったことを知る。もう77歳だったということに驚いていた人がいたけれど、最も活躍していた70年代や80年代には30代或いは40代だったということの方に改めて驚いた。
『毎日』の記事;

訃報:赤瀬川原平さん77歳=美術家、作家「老人力

毎日新聞 2014年10月27日 03時01分(最終更新 10月27日 08時42分)


 前衛美術の旗手として頭角を現し、小説家として芥川賞を受賞、エッセーでも「老人力」という流行語を生むなど幅広く活躍した美術家・作家の赤瀬川原平(あかせがわ・げんぺい<本名・克彦=かつひこ>)さんが26日午前6時33分、敗血症のため東京都内の病院で亡くなった。77歳。葬儀は近親者で営む。喪主は妻尚子(なおこ)さん。

 1950年代末から無鑑査の美術展に出品を始め、60年、同世代の芸術家と「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」を結成。既成の価値観や表現にとらわれないオブジェを発表した。63年には故・高松次郎中西夏之さんと結成した「ハイレッド・センター」で、さまざまなものを梱包(こんぽう)する立体作品を発表。都心部でのパフォーマンスを通し、東京五輪を前に急変する社会に疑問の一石を投じた。

 63年に千円札の片面を原寸大に印刷し、個展の案内状デザインに利用したことが、後に「通貨及証券模造取締法違反」に問われ、「犯罪か芸術か」をめぐる「千円札裁判」として注目された。70年、最高裁で執行猶予付き有罪が確定した。

 70年代には「尾辻克彦」のペンネームで小説の執筆も開始し、81年、「父が消えた」で芥川賞を受賞。また、老化の兆候をポジティブにとらえたエッセー「老人力」(98年)がベストセラーとなり、翌年の毎日出版文化賞特別賞を受賞した。

 散歩を愛し、路上観察を提唱したほか、日本美術の面白さを分かりやすく説く文章やトークが人気を集めた。2006〜10年、本紙夕刊(東京本社紙面)でコラム「散歩の言い訳」を連載。著書に「超芸術トマソン」「千利休」「東京随筆」など。直木賞作家の赤瀬川隼さんは兄。

 11年の胃の全摘手術以降、体調が悪化。25日夜、容体が急変したという。18日から東京都の町田市民文学館ことばらんどで個展を開催中。千葉市美術館でも28日に美術展の開幕を控えていた。
http://mainichi.jp/select/news/20141027k0000m040142000c.html

赤瀬川原平さん死去:並外れた面白がり方

毎日新聞 2014年10月27日 03時02分(最終更新 10月27日 03時30分)


 美術家・作家の赤瀬川原平さん(77)が26日亡くなった。異能の人、天才肌と称されたが、作品では人間から小動物、物品まで等しく優しい視線で見つめ、家族の前でも決して声を荒らげない温厚な人柄が広く愛された。常にユーモアを絶やさず、2011年に胃がん脳卒中をわずらった後は、それぞれの病気から回復した王貞治長嶋茂雄両氏にたとえ「いやあ、ON(王、長嶋氏)両方やっちゃいました」と周囲を笑わせた。

 多彩な創作活動で知られる赤瀬川さんは「ある程度やると飽きちゃうんです」とも語っていたが、対象への執着、集中力、面白がり方が並外れていた。作品は肩の力が抜け緩そうに見えるが、2Bのシャープペンで書きつづる執筆では一字一句にこだわり、小さな修正も厳しく抵抗した。

 昨年夏、入院先で妻の尚子さんに「赤瀬川原平をやめようかな」と漏らした。脳卒中の後、友人には「言葉の面白さがわからなくなった」と話している。それでも療養中、医療情報誌「からころ」に書いたコラムは、持ち味の諧謔(かいぎゃく)が光っている。

 <病気はチャンスだと思う(略)一定期間、病気の世界を通り抜けていく。いわば病気観光、病気旅行だ><病気をくぐり抜けた人の話は面白い。(略)病気でなくて貧乏もそうだ。貧乏を知らない人の話はいまひとつ味わいがない>(「健康半分」)とつづり、例として内田百ケン、熊谷守一を挙げていた。

 文章には赤瀬川さんらしさの「核」があるが、「原平をやめたい」と吐露したのは、自分が厳しく敷いた面白さのレベルを「維持できないと悟ったからではないか」と尚子さんは言う。表現への深い情熱、真摯(しんし)さの表れだった。【藤原章生
http://mainichi.jp/select/news/20141027k0000m040143000c.html

父が消えた (河出文庫)

父が消えた (河出文庫)

超芸術トマソン (ちくま文庫)

超芸術トマソン (ちくま文庫)

あと、エピソードとしてどうしても付け加えなければならないのは、朝日新聞社に(当時としては)未曾有の危機をもたらした『櫻画報』事件だろう(笑)。
櫻画報大全

櫻画報大全

一言でいうと、「たくさんの「面白がり方」を教えてくださった」ということか*2