「原郷」(メモ)

高橋咲子*1「人類の「原郷体験」描く」『毎日新聞』2021年2月14日


横尾忠則*2へのインタヴュー記事。横尾の「過去最大級の個展」だという『GENKYO横尾忠則 原郷から幻境へ、そして現況は?』が名古屋市愛知県美術館で開催されている*3


――〔個展の〕タイトルにもなっている「原郷」は創造の源泉でもあり、人類にとっての共通体験のようなものだということですが、横尾さんにとっての「原郷」とはどういうものですか。


我々は、肉体として生まれ、肉体が消滅して死ぬまでの100歳前後の肉体時間だけが人間の生命時間だと思っています。でもそうじゃない。生まれる以前の時間、生まれたあとの時間も含めて、我々は何度も繰り返してきているわけですよね。年齢も、何百歳、何千歳かもわからない。この広大な時間のなかでの体験を「原郷」という言葉で表したんです。


――そうして生み出された作品が見る人の原郷とも響き合います。街角の三差路を描いた「Y字路」シリーズも、不思議と心ひかれる人は多いようです。


原美術館(東京都)*4で初めてY字路の展覧会をしたときに、アメリカかどこかから来た男女が、日本に初めて来たのにもかかわらず、絵を見て「この場所、知っている」「あの場所も」と言うんです。原体験のなかにY字路を発見したり、あるいは夜の暗いY字路に自分が生まれてくる以前のイメージを感じたりしたのでしょう。日本のことを知らないのに、自分自身の風景とつながるというのは、「原郷体験」と言えるかもしれない。評論家は「Y字路は人生の岐路である」なんて言うけど、絵から感じる体験というのは理屈じゃないんです。

「猫」と「人間」;

横尾さんの自画像を囲むように、亡くなった愛猫「タマ」のさまざまな姿を捉えた悪品が展示されているのも心を打ちました。


タマは猫の姿をした人間で、ぼくも人間の姿をした猫かもしれない。猫のぼくと人間のGタマは、けんかもしました。タマは嫌なとき、実に嫌そうな顔をするんですよ。眉間にしわを寄せるの。アメリカの女の子みたいに、「イヤー」って顔をするわけ。だから、タマは「生活の風景」なんです。生活のなかから生まれた作品の展覧会だから、タマの絵があちこちに散在しているようにしてほしいと(美術館に)言いました。
ある時期、一緒に生活したのだから家族の一員です。そのときの記憶とか感情は消えることなく、ものを作り、生きていく上で何かしらになっているはずです。ぼくが死んだら死んだで、向こうでタマと会うと思います、間違いなく。過去に家にいた猫で会えないだろうなというのもいるけど、タマの場合は向こうで待機しているのが分かるんです。