所謂「事業仕分け」については、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091015/1255629124 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091120/1258746079 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091126/1259201785 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091129/1259488849 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091217/1261074876 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091223/1261580863 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100104/1262578368 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100106/1262774038 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100128/1264688062 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100216/1266287922 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100416/1271390292とかで直接的或いは間接的に言及している。
さて、国立の美術館・博物館が「仕分け」の対象になったという。既に先月のものではあるが、『朝日』の記事;
事業は拡大しろ、でも金はやらないよという要約で正しいのだろうか。
「拡充OK」に文科相苦笑い 美術館事業の仕分け評決2010年4月28日1時50分
「中身を充実しなさいというご指摘はありがたい」。川端達夫文部科学相は27日の閣議後会見で上機嫌にこう語った。前夜の第2弾の事業仕分けで、国立美術館、国立文化財機構の美術品などの収集事業が「規模拡充」と判断されたからだ。ただ、国からの交付金は増えない前提のため、「けっこう難しい話」と苦笑も浮かべた。
仕分け人の蓮舫参院議員が「廃止するだけではないという良い例」と自賛した前夜の国立美術館などの仕分け。仕分け人と独法側が、優れた美術品などの購入の必要性で意見が一致した。
ただ、評決では収集の資金は民間の寄付やコスト縮減で捻出(ねんしゅつ)し、さらに、独法制度の見直しを通じて「自己収入の拡大」を目指すよう求めた。独法制度の課題として、独法が支出を上回る収入を稼いだ際に、それを積立金として蓄えることが認められる条件が厳しい、といったことも指摘された。官僚からは「独法制度全体にかかわる問題であり、文科省、文化庁単独での改革は難しい」と嘆きの声も漏れ、まさに政治主導が求められている。(赤田康和、宮本茂頼)
http://www.asahi.com/politics/update/0428/TKY201004270524.html
そして、5月21日付けの『朝日』の記事;
正直言って、記事の後半でドキュメンタリー映画に言及した意味はよくわからない。和蘭の美術関係者がどのようにして危機を乗り切ったのかという方法や手段に言及しないで、「館の再生にかける館長や各部門の責任者の学芸員たちの熱情や意欲」云々というのはどういうことなのか。勿論「熱情や意欲」が大切であることはいうまでもないが、具体的な方法や手段を示さない限り、関係者に対して、お前ら根性で頑張れ! と言っているのに等しいのでは?
理想追えないむなしさ 国立美術館・博物館の事業仕分け(1/2ページ)2010年5月21日15時16分
鳩山政権による「事業仕分け」第2弾(前半戦)の結果が出て約3週間が過ぎたのに、役所内にはまだ、むなしい空気が漂っている。国立の美術館・博物館の収集事業について「事業は拡充せよ」「だが投入する国費の増額は認めない」との判定を下された文化庁のことだ。
美術館・博物館を運営するのは、国立美術館、国立文化財機構の二つの独立行政法人だ。仕分け人は、館の施設を結婚披露宴やパーティーの会場として貸し出してでも自己収入を増やすよう求めた。だが、両法人は収入の9割を国からの交付金・補助金に依存している。1割しかない自己収入をどこまで増やせるというのか。
川端達夫文部科学相は18日の閣議後会見でこう話した。「大事に保管する、保存するのが本来の目的。お客さんがたくさんくるとか、収入があるとかないとかいう話が目につきがちだが、できないことはできない」
語られる目標は素晴らしい。だが、それを実現する道筋が示せない――。美術館問題の中に、普天間問題でもがく鳩山首相にも通じる構図を感じた。
目標を高らかに掲げることはリスクが伴う。実現できなければ、政権を信じた国民も無力感に襲われてしまう。だからこそ目標を実現しようと懸命に走りまわる人間が必要ではないか。
国立美術館の改築工事の大変さを描いたオランダのドキュメンタリー映画「ようこそ、アムステルダム国立美術館へ」(今年8月渋谷ユーロスペースなどで公開予定)にヒントがある。
この美術館、大規模な改築による館の生まれ変わりを目指したが、次々と障害にぶつかる。地域住民に反対され、設計変更を強いられる。入札も参加業者が少なく、工事費が予算を超える。だが映画からは、館の再生にかける館長や各部門の責任者の学芸員たちの熱情や意欲がひしひしと伝わってくる。
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201005210270.html仕分けで示された「目標」を実現するには、副大臣・政務官級の政治家か、文化庁次長級以上の官僚が強力な指導力を発揮する必要がある。法人のお金が余ったら国に返納しなくてはならない制度もあり、そうした制度の見直しは役所の1部門では手に余るからだ。美術館の展示の充実という理想を信じ、この問題を24時間考え続けるような熱意のある担当者もほしい。
オランダの館長はこう話していた。「私にとって大事なのは理想が守られるか否か。それが私の基準だ」
現実を前に妥協を強いられたとき、理想の中核部分が溶けずに残るかどうか。異国の文化の担い手たちのしぶとさに脱帽しつつ、彼我の理想の強度の違いについて考えさせられた。(赤田康和)
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201005210270_01.html
さて、「仕分け人」は「館の施設を結婚披露宴やパーティーの会場として貸し出してでも自己収入を増やすよう求めた」という。「結婚披露宴」に貸し出すとしたら、そのピークは休日になるだろう。休日というのは美術館入場者のピークでもある。絵を観るためにやってきた人にとっては、静寂な鑑賞環境が掻き乱されることになり、却って美術館から足を遠ざけるということにならないか。また、管見の限り、国立の美術館にはパーティ会場に相応しいようなこぢんまりとしたところはあまりないように思うのだが、どうなのだろうか。元々皇族のお屋敷だった東京都立庭園美術館はパーティ会場として最適だとは思うけど。また、私立の美術館だけど、品川(御殿山)の原美術館。こちらもお屋敷系だ。
そうすると、集客力のある企画を打って収入を増やせということになるけど、これに関しては興味深い意見がある;
「マスコミとの共催展」の混雑ぶりにうんざりしている人は少なくないだろうけど、このような〈泰西名画〉を大々的に展示するという仕方は、マスコミの「財政的余裕」以外の面でも既に限界に近づいているのではないかと思う。マスコミにこうした企画の大義名分を与え、大衆動員を可能にしているのは、或る種の(大衆化された)教養主義であるが、それが危機に瀕していることは少なからぬ人々が論じていることだ。この教養主義の命脈が尽きれば「マスコミとの共催展」も終わりだろう。私としては、さらにポピュリズム的な方向、例えばオタク文化に阿るような方向に行くんじゃないかという危惧を持っている。
事業仕分けの第二弾で去年はなかった「国立美術館」が対象になっているので期待したが、結果には本当に失望した。裁定は「事業規模は拡充(適切な制度のあり方を検討するとともに、民間からの寄付、自己収入の拡大、コスト縮減といった努力を徹底し、国からの負担をふやさない形での拡充を図る)」。冗談かと思った。国立美術館の企画展は、大半が新聞やテレビなどのマスコミとの共催で成り立っている。欧米の美術館で行われるような美術館同士の貸し借りでなく、マスコミが億単位のギャラを払って借りてくるから海外の大美術館のいいカモだ。マスコミは費用を回収し、さらに収入を上げるために自らの媒体を駆使して観客を押し込む。だから話題の展覧会はまず展示品が見えないくらい混雑する。こんな非文化的な状況を状況を(sic.)解決するのが先だろう。これまで美術館側は収入のほとんどをマスコミとの共催展で稼いできたが(経費はすべてマスコミ持ち)、「自己収入の拡大」を目指せば、もっと観客を押し込むしかない。数年後には新聞やテレビは国立美術館につきあう財政的余裕がなくなる可能性が高いので、その心配はないかもしれないが。
ギャラを払うマスコミと組まなければ、押しこむ必要はない。欧米のように予約制を中心にして、入場者数を制限できる。マスコミとの共催展の弊害は、当然ながら新聞などのマスコミは触れない。あるいは、美術館同士の統廃合にはどうして触れないのか。同じ「国立美術館」でも、東京国立近代美術館に数多くある西洋美術は上野の国立西洋美術館に移したらどうか。京都国立近代美術館や大阪の国立国際美術館も含めて、それぞれがもっと特色のあるコレクションのために大胆に中身を入れ替えた方がいい。
地方の美術館にはいい作品を持ちながら、財政難で展示はおろか保存もままならないところが多い。そういう美術館から寄託を受けてコレクションを充実させ、きちんと保存してゆくことも国の役割だ。さらには美術館と博物館の区別もなくした方がいい。英語ではすべてmuseumだ。東京国立博物館を中心に、国立科学博物館も含めて上野ミュージアム地区を再編成し、充実させるべきだ。マスコミの企画展に頼る現状はあまりにお粗末で、これでは観光立国もできない。地方自治体も巻き込んだ全国規模の再編も視野に入れないと。朝日新聞では最近「ハコもの文化行政」の連載をしているが、こういう本質的な問題には触れていない。
http://images2.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-47af.html
私は、国立の美術館や博物館への国庫からの支出は増やすべきだと思っている。それは社会福祉という意味である。原則として、国立或いは公立の美術館・博物館は、少なくとも常設展に限っては、原則として入場無料にすべきだと思っている。経済的に不利な立場にいる人にアートや文物を享受する権利を保障するという意味で。
ところで、「事業仕分け」にそういうことを期待するのはお門違いなのかもしれないけど、日本という国家のソフト・パワー問題も含めた戦略的な議論というのは為されたのだろうか。国立の美術館による美術品の収集といっても、今更〈泰西名画〉でもない感じがする。或いは、明治以降に海外に流出した日本の文物を買い戻す? これはこれでナショナリズムの瓦斯抜きとしては大いに意味があるように思うけど。アーティストにとって、国立の美術館による買い上げはアーティストとしてのステータスを示す目標或いは指標として機能しているということもできるだろう。そのためには美術館の権威が維持されなければならず、作品の収集もそのような権威(名画だから買うのではなく、その美術館が買うから名画なのだということ)を維持する方向で戦略的になされるべきだということになる。また、アーティストにとって、公的な美術館における個展の開催やグループ展への参加は、グローバルなアート市場における価値を附加することになる。ということで、これは(産業としての)美術の活性化ということに繋がることにもなる。