山本鼎(メモ)

住友文彦「山本鼎の農民美術運動」『毎日新聞』2020年2月8日


画家の山本鼎*1が「農民美術運動」を始めた契機は「ロシアでの体験」だった。


(前略)革命前夜とも言えるロシアで山本が見たのは、伝統的な手工芸の産業化だった。そして帰国後、大正デモクラシーが進展するなかで、芸術の民主化を目指す若者たちと共に農民美術運動に取り組む。
当時、機械化によって失われてゆく手仕事に再評価の視線を送る者は少なくなかった。日々の生活を豊かにしていく芸術を生み出そうという機運が高まっていたのだ。その代表的な人物で民藝運動を牽引した柳宗悦*2は、土地固有の材料と伝統を活かすべきとして、山本らの農民美術運動を「ロシア風」と批判している。山本たちが商品の魅力を高めるデザインの工夫を施したためと思われる。しかし、当時の風俗などを反映した木片人形からは、むしろ農民たちが楽しみながら作っていた姿が目に浮かぶ。
「自由画教育」について。

また、同時期に山本が推進した自由画教育は、お手本を模倣するのが主流だった美術教育を変革する試みである。「自分の感じたものが一番尊い」という言葉通り、子供たちの感覚を優先する教育の実践である。彼は、創作版画の制作において個の確立を探求したのと同様に、一貫して労働者や児童に対しても自立した個の確立を促した。
ところで、山本鼎には、国柱会*3の会員、日蓮主義者という側面もあるのだった。
国柱会のサイトに曰く、

山本鼎(やまもとかなえ)
愛知県岡崎の出身。明治39年東京美術学校洋画科卒、同44年フランスに留学、翌年ロシアを経て帰国し、日本美術院展に「サーニヤ」「自画像」などを出品して認められた。その後、農民芸術運動などを起こし、創作版画を唱えて現代版画の育成に尽くした功績は大きい。

国柱会に入会したのは、田中智学先生の門下で叔父にあたる保坂智宙講師のすすめによるもの。大正10年6月創刊の雑誌『開顕』の表紙画を描いている。家子夫人は北原白秋の令妹で、国柱会の信仰あつく、夫妻ともに妙宗大霊廟に鎮っている。

現代の詩人として著名な令息の山本太郎氏は、昭和43年の国柱会本部本部講堂落慶・妙宗大霊廟創建40周年記念大会に際し、「霊廟讃歌」を献詩した。「真世界の歌」も氏の作詩による。
http://www.kokuchukai.or.jp/about/hitobito/yamamotokanae.html

山本鼎と農民美術運動については、以下の論文も参照のこと;


山口眞理、三橋俊雄、宮崎清「山本鼎の日本農民美 術運 動 一 大正 ・昭和前期にお ける農村 工芸振興の内発性に関する研究」『デザイン学研究』42-2、pp.58-64、1995 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jssdj/42/2/42_KJ00007026681/_pdf