『偽満州国論』

 7月4日、そういえば本日はアメリカ独立革命記念日である。
 武田徹『偽満州国論』(中公文庫)を読了する。
 この本は「満州国*1(及びそれに関係した石原莞爾甘粕正彦)を巡る考察であるとともに、「満州国」を「テキスト」とした「国家」一般についての考察でもある。だからこそ、途中で「満州国」という文脈から全く離れて*2吉本隆明共同幻想論』に対する批判に1章分が割かれていたりする。また、「国家」一般についての考察ということに関しては、この本の初版が〈地下鉄サリン事件〉が起こり、〈オウム真理教の年〉であった1995年に出ていることには留意すべきだろう。
 内容を述べる前に、この本に見られる幾つかの杜撰さを指摘しておくべきだろうか(勿論、この本に興味深い知見や洞察があることを否定するものではない)。


 ちなみに石原[莞爾]個人に関しては、彼が東北出身者であったことに注目すべきなのかもしれない(石原だけでなく、満州関係で名の出る者の多くが東北出身である。本書に登場する人に関して言えば大川周明、安江仙弘、宮沢賢治石橋湛山などがそれに当たる)。東北の多くの藩は明治維新のときに幕府側についたために、以来、朝敵のレッテルを貼られ、出身者はつねに屈辱的扱いに堪え忍んできた。石原は庄内藩出身者であり、そうした歴史をおそらく親たちから聞きながら育っただろう(p.103)。
この人にとっては、石橋湛山が生まれ育った身延山を中心とした富士川流域(甲州と駿州)は「東北」なのだろうか。また、石原が「きわめて熱心な、頑なとさえ言えそうな、日蓮宗の信徒でもあった」(p.112)ことから著者は次のように言う;

 日蓮宗は石原のキャラクターを決定する特色を二つ備えていた。一つは、きわめて戦闘的な性格を有していること。これは日蓮自身が時の権力者である北条氏と激しく戦い、弾圧を受けて佐渡に流刑となった経緯に明らかである。そして、もう一つは、仏教では珍しく強いメシア願望を備えていること。教祖の処刑により忍従を強いられるかたちになった日蓮宗の信徒は、以後、教祖の復活を願うようになる。釈迦入滅以後の時代を正法、像っ法、末法と、しだいに釈迦の教えが伝わらなくなってゆくプロセスとして三つに分けるのは仏教一般の見方だが、日蓮宗の場合、末法の世の乱れに際して正法を建てる戦いを行い、安国に繋げるべきだと考える。そしてその達成の日こそ日蓮の復活する時だとみなしていた。その際、戦闘的な宗派ゆえに、作業を邪魔立てするものがあれば、「折伏」によって斥けるべしと考える。敵意ある者とは断固、戦うのが日蓮宗の特性なのだ(pp.112-113)。
宮沢賢治殺人事件』の吉田司氏も国柱会からクレームを受けたというが、こういうことを書いて、関係者からのクレームなり批判なりは全くなかったのだろうか。「教祖の処刑」というが、日蓮は流刑が解かれた後、有力な外護者もでき、身延に庵を構え、それなりに安定した晩年を送った筈だ。「教祖の復活」というのは、日蓮上行菩薩の生まれ変わりだということだろうか。これは日蓮の死後、忍従する信徒たちが「願うよう」になったのではなく、日蓮生前の省察の中でそのような自覚が生まれていったということである。また、「戦闘的な宗派」ということだが、少なくとも日蓮存命中は自分たちから他宗派を襲撃したということはない。「不受不施」にしても、これは現代的な言葉でいえば、〈経済制裁〉であり、取り立てて暴力が肯定されているわけではない。そもそもこの時代の仏教は、僧兵を擁した比叡山にしてもどこにしても武装していたのであり、〈武装闘争〉ということなら、一向一揆一向宗の右に出るところはないではないか。
 著者の問題意識に即するならば、寧ろ日蓮門下の諸門流が主に京都の町衆を初めとする都市のブルジョワジーに教線を拡げていったことに注目すべきではないのか。本阿弥光悦尾形光琳日蓮宗の信者だったのだ。
 さて、この本で描かれる「満州国」に関しての事実は、石原や甘粕についても、「日蓮主義」の役割についても、満州国の都市計画に関しても、「満州映画協会」についても、その言語政策についても、取り立てて目新しいことではないだろう*3。だから、重要なのは、そうした事実を素材にして、著者がどのような思考を展開しているかということだ。
 ここでの著者の思考の中心には、「都市」と「国家」の対立がある。曰く、

 「都市的共同体」とは個々の構成員の意志が共同体づくりに直接反映している共同体、そして「国家的共同体」を個々の構成員の直接の反映ではなく、国家という一種の抽象化された観念によって統合された共同体として、とりあえず定義したとき、新京の街は後者に該当するのだと思う。国都であるという前提条件が、住む人々の都合を超えて、その街づくりに強く影響を及ぼしている(p.69)。

人と人とが互いに生存権を遂行し、生きて行く上で重要な利益を獲得するために、時には嫌な思いをしつつも、他者を尊重し、共同生活を送るのが都市だ。そこで関係は水平なものとなっている。それに対して国家とは、そうした人々の水平の関係に対してなんらかの力を上から行使しようとする。やや図式的に整理しておけば、水平関係の関係性で満たされた共同体が都市型共同体であり、垂直関係を含む共同体が国家型共同体なのだ(p.172)。
このような対立概念を前提に、吉本隆明の思想が批判され、或いは「都市型共同体」を可能にする法思想としてH.L.A.ハートが参照される。吉本に対する批判の要点は以下の一節に表現されている;

家族と国家は似ているといわれ、納得したり、反発したりはするが、国家共同体と対立する都市型共同体については、ついに思いが至らないか、気づいていても実感がないので考えを深められない。言葉にどこからか湧き出る力を信じてしまうのとほとんど同型的に、共同体にも上から来る力を認めてしまう。垂直型共同体しかイメージできないから、それに圧殺されてなお戦う個人という「国家対個」の上下対立関係においてしか共同体の問題を考察することができない。
 しかし共同体と個々人とのかかわり合いは、垂直関係だけに留まるものではないのだ。水平的共同体においては個々人が社会性を自分たちの眼の高さに内在させて生活している。権利と義務の相互承認の相補的な履行は個々人が社会性を帯びつつ行動しているということだ。そうした共同性と個の二重性を見てとることが、多くの日本人が不得手だった。だからこそ満州国はあのようなかたちで生まれた。だからこそ『共同幻想論』はあのようなかたちで書かれなければならなかった、そう言えるのかもしれない(pp.173-174)。
 吉本が批判されるのは、「国家」と「個」を「共同体の質」を考慮せずに、単純に対立させるからである。私は必ずしもそうだとは思わないが*4
 私も吉本隆明は批判的に総括しなければいけないと思っているのだが、私の論点は違う。「幻想」という言葉自体が問題だ*5。私の日本語の感覚では、「幻想」というのは「知覚」若しくは「真理」と対立する。特に「真理」と対立した場合、「幻想」はとてもネガティヴな意味を強いられる。幻想と真理とのギャップに気づいて〈幻滅〉するとか。そのことによって、現に存在している制度などを貶め・相対化することは可能になる。しかし、あることを「幻想」と断じてしまうためには、「幻想」から全く免れた「真理」の位置に立っていることが必要である。しかし、そんなことはそもそも可能なのだろうか。そんな「真理」の所有を哲学的・政治的に正統化するすることは可能なのだろうか。ここで、「真理」による暴力という論点が出てくるのだが、長くなるので、ここでは省略。さらに、「幻想」だとか「真実」だとかを云々できない領域もある。それはこの本の主題ともなっている「国家」だとか社会だとかについて語る場合である。国家のような大規模な組織体或いは共同体は、私の直接的な社会関係を超えており、その存在自体、不可視である。見ることができないということは、「幻想」なのか「真理」なのかを判断することができないということだ。そのようなものに関しては、〈不可知論〉にとどまるしかない。しかし、私は(大人として)国家なんか存在してるかどうかもわからないなんていうことはいわない。寧ろその存在を自明なものとしている。私が問題にしたいのはその不思議さなのだ。私の観るところ、吉本も武田もさらにはハートも、このことについては(例えば保坂和志とは違って)全く不思議に思っていないのだ。これが私だけの妄想ではないことは、『想像の共同体』という書物を書いた雲南省生まれの英国人がいて、武田がこの本を執筆している時には、既にその本の訳本も出ていたということからも明らかだろう。著者も「ラジオ」の例を持ち出したとき(pp.44-45)、いい線いっていたということになるのだが、近代日本の特殊性という方向に話を逸らしていっているように思える。「国体」が曖昧なのは、そもそもが日本のだからということではなくて、構造的な(いってしまえば存在論的な)問題なのだ。
 このように書いていると、私が武田を貶めているように思われるかも知れないが、それは真意ではない。(これは読み終わってから気づいたのだけど)、この本は完成した思考を提示する(思考が完成することなんてありうるのか)〈作品〉というよりは、著者の思考の過程を提示したもの、いってしまえばWork-in-Progressなのだ。私はこの本で展開されている〈日本語論〉を読みながら、決定論だとか日本特殊論だとか苛ついていたのだが、後半部でちゃっかりと自己批判がなされている(p.210)。その意味で、この本の読み方は、著者の思想を評定するのではなく、著者の思考の過程に寄り添いつつ、それに突っ込みを入れて、読者も著者とともに/著者に逆らって思考してゆくというのが正しいのかな、
と思う。


 さて、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/050702で、『ミリオンダラー・ベイビー』について書いたのだが、『オブザーヴァー』にKevin Mitchell氏が"Fights, camera, action"を書いている。ハリウッド映画とボクシングとの関係を批判的に辿ったもの。Mitchell氏は映画担当ではなく、スポーツ担当の記者。『ミリオンダラー・ベイビー』もスポーツ・ライターの目から見ると、ご不満であるようだ。
 また、『ミリオンダラー・ベイビー』については、http://d.hatena.ne.jp/Kakeru/20050626におけるKakeruさんの指摘が興味深かった。特に、「デンジャー」というキャラクターについての。ただ、Fitzgeraldは「アイルランド系」の名前ではない。Fitzgeraldはノルマンディ辺りの仏蘭西語の方言に由来する名前で、Geraldの息子という意味。


 『宗教と社会』11(「宗教と社会」学会)届く。

*1:私はサンズイの付いた「満洲國」という表記が歴史的にも陰陽五行的にも正しいと考えるが、ここでは「満州国」という表記に従う。

*2:とはいっても、著者は宮沢賢治を介して、吉本と「満州国」を間接的に結びつけようとしてはいる(p.162ff.)。

*3:但し、ゲーム・メーカー「タイトー」を創業した猶太系露西亜人ミハエル・コーガンと満州との関係については、少なくとも私は蒙を開かれたという感じがしたが。

*4:吉本を弁護するとすれば、『共同幻想論』で「個なる幻想」が強調されるのは、〈文学〉を基礎づけるという目的があったからだといえるだろう。石川の『現代小説のレッスン』を参照してもいいのだが、〈近代文学〉においては、〈共同体〉から独立した〈個〉の言葉であることが制度的に強制されるのである。

*5:共同幻想」というのを、例えば英語にどう訳すのか。Common Illusion?Common Fantasy?吉本、或いは吉本を賛美したり批判したりする人たちは、その鍵言葉がどのように外国語に翻訳されうるのかということについては、全く無頓着なのだろうか。