ルカーチ/河上(メモ)

細見和之フランクフルト学派*1の第1章「社会研究所の創設と初期ホルクハイマーの思想」では、第一次大戦後の左翼的な危機意識の代表として、ルカーチ*2の『歴史と階級意識』が採り上げられている(p.4ff.)。


マルクスの思想を、カントからヘーゲルにいたるドイツの古典的な哲学の流れのなかであらためて受けとめ、マルクスの思想を再哲学化すること――。大きくはそういう方向にルカーチの著書は寄与しました。(p.8)
歴史と階級意識 (1962年)

歴史と階級意識 (1962年)


(前略)ルカーチは『歴史と階級意識』のなかで、「労働者」「プロレタリアート」という言葉を何十回と繰り返していますが、それはどこまでも抽象的な概念であって、そこに生身の労働者、プロレタリアートを具体的に感じ取ることはとうてい不可能です。
実際ルカーチは、彼のもとめるような「階級意識」を現実にはプロレタリアートがただしく獲得しないという問題を受けて、党による階級意識の注入ないし指導ということを語ります。これは結局のところ、党の神聖化へと反転せざるをえない考え方です。党だけがただしい階級意識を保持している、ということになるのですから。
いずれにしろ、『歴史と階級意識』に収められた諸論文からは、『小説の理論』までのルカーチとはまったく異なった印象、それこそインストールされるソフトがすっかり入れ替わったような印象を受けます。私は以前に、ルカーチと同時代の日本のマルクス主義経済学者、河上肇の『貧乏物語』(一九一七年)と『第二貧乏物語』(一九三〇年)を読み比べて、まったく同じような印象を受けました。『貧乏物語』は河上肇の個性に裏打ちされた、大衆性のある優れた著作ですが、『第二貧乏物語』は、河上の個性がすっかり消え失せた、じつに教条的な文体と語彙で延々と書き連ねたものとなっています。これは洋の東西を問わず、いまにいたるまでのマルクス主義の決定的な弱点です。(pp.7-8)
貧乏物語 (岩波文庫 青132-1)

貧乏物語 (岩波文庫 青132-1)

大学生のときに読んだ平井俊彦訳の『歴史と階級意識』(未来社)は全訳ではなかったけれど。さて、「党の神聖化」は「マルクスの思想」の「再哲学化」の帰結なのかどうか。ルカーチハンガリー革命(ハンガリー民主共和国)に参加したが、革命敗北後、長期の亡命生活を余儀なくされる。そうした中で、彼の思想はレーニンによって、「極左」或いは「共産主義における左翼小児病」として激しく批判されてしまう*3。ぼこぼこに批判された挙句、ルカーチレーニン本人から直に折伏され、レーニン信者になってしまい、信仰告白の書『レーニン論』も書いている。『歴史と階級意識』は信者になった後の著作である。それでも、『歴史と階級意識』は「極左主義」という批判を〈党〉から受けてしまうのだが*4河上肇*5の『第二貧乏物語』は現在新日本出版社のヴァージョンだけなのか*6。これは目次を見ると、ただの〈マルクス主義入門書〉みたい*7
共産主義における左翼小児病―新訳 (国民文庫 105)

共産主義における左翼小児病―新訳 (国民文庫 105)

レーニン論 (1965年) (青木文庫)

レーニン論 (1965年) (青木文庫)

さて、『小説の理論』や『歴史と階級意識』を含むルカーチのテクスト(英訳)は、以下で読むことができる;


Georg Lukács Archive https://www.marxists.org/archive/lukacs/


また、青空文庫で読める河上肇のテクスト*8には『貧乏物語』も含まれている*9。『第二貧乏物語』は「作業中」であるという。