あの頃中国は輝いていた!

自由の精神

自由の精神

萩原延壽*1「日本知識人とマルクス主義」in 『自由の精神』、pp.44-57 *2


少し抜書き。
「戦後日本の知識人がマルクス主義に強く引き付けられた背景」として、2つのことが言及される。先ずは、


戦前の日本において、「国体」という全体的なイデオロギーに直面して、マルクス主義は、これと全体的に対決し得る殆ど唯一のイデオロギーであった。とりわけ、個人主義という抵抗の拠点が殆ど欠如していた近代日本の歴史においては、強権を伴って国民の全生活に浸透してくる天皇制のイデオロギーを迎え撃つに当たって、マルクス主義はほとんど唯一の武器であった。軍国主義日本の想い出が忌まわしければ忌まわしいほど、戦前の日本におけるマルクス主義の歴史は輝きを増してくる。過去の受難は、現在の光栄を用意した。(p.46)
さらに、「マルクス主義思想に対して、最も深刻な批判を提起し得るはずの自由主義思想が、アメリカ占領軍という武力を背景にして登場したこと」、「民主主義が、日本を現実に支配するアメリカ占領軍と、その意を体して統治する日本の支配勢力によって、上から与えられた」こと(p.47)。

ここに、中国共産党の勝利という、巨大な歴史的事件が発生した。侵略の歴史をも含めた、中国と日本との長く深い関係を背景にして、統一された新生中国の誕生は、日本の知識人に深い感動を呼びおこした。百年におよぶ停滞と混乱の歴史を断ち切って、あの広大な地域の上に、新しい国家が出現したことは、確かに一つの感動的な出来事であった。そして、それを可能にしたのは、マルクス主義によって導かれる中国共産党であったことも事実である。
昭和二十六年、この中国を除外して、いわゆる片面講和条約アメリカはじめ旧連合諸国と結ばれた時、中国人民に与えた惨苦の数々を思えば、日本政府の態度は、「やくざの仁義にさえ劣る」と詰問した野上彌生子女史の言葉は、よく日本の知識人の心情を伝えていた。エドガー・スノウ*3の『中国の赤い星』に描かれた毛沢東をはじめとする中国共産党の人々の言行は、中国古代の成人を彷彿とさせ、延安にたどり着くまでの長征の歴史は、壮大な叙事詩を目の当たりに見るような人間的なドラマに満ちていた。マルクス主義は、中国を舞台にして、ふたたび黄金伝説を生み出した。いや、中国というようなアジアでこそ、マルクス主義の真に「人間的」な側面が開花するのではないか、――このような角度からのマルクス主義の再検討もおこなわれるようになった。レーニンの高度に政治的な発言であった「遅れたヨーロッパと進んだアジア」(一九一三年)という言葉が、その歴史的な文脈をむしろ捨象して、思想的に扱われさえするようになった。ともかく、中国共産党の勝利が、日本の知識人にとって、マルクス主義を親しみやすいものにしたことは疑い得ない。(pp.47-48)
勿論、21世紀という特権的な時点から見れば、萩原の歴史認識をそっくりそのまま共有することは難しいだろう。例えば、中華民国期の中国は「混乱」はしていたが、決して「停滞」していたわけではなかったとか。また、萩原も「日本の知識人」と「マルクス主義」との(中国語に謂うところの)情結をそのまま肯定していたわけではない。「むしろ、日本に特殊な事情は、一種の心理的な怠惰や感傷となって、現代におけるマルクス主義そのものの問題性を隠蔽することさえ往々にしてある」として(p.50)、このテクストは後半へと折り返す。