「歴史」について(張愛玲)

傾城の恋/封鎖 (光文社古典新訳文庫)

傾城の恋/封鎖 (光文社古典新訳文庫)

張愛玲「戦場の香港――燼余録」(藤井省三訳)(『傾城の恋/封鎖』、pp.101-127)から。


私には歴史を書くつもりはなく、歴史家はどのような姿勢であるべきかを議論する資格もないのだが、密かに彼らにはもっと関係のないことを話してほしいものだと願っている。現実というものには体系がなく、まるで七、八台の蓄音機が同時に唱い出し、めいめい勝手に自分の歌を唱って、混沌を作り出すようなもの、その不可解な喧騒の中には偶然にも透き徹った、人を泣かせ眼を輝かせるような一瞬があり、音楽のメロディが聴きとれるものの、すぐさま暗黒に包まれ、わずかばかりの理解は沈められてしまうのだ。画家、文人、作曲家は断片的な、折よく発見した調和を繋げて、芸術的な完全性を作り出す。もしも歴史が過度に芸術的完全性に注意を払えば、それが小説となる。ウェルズの『世界史概観』のような本に、正史の仲間入りが許されないのは、まさに余りに合理化されており、書いていることと言えば初めから終わりまで個人と社会との闘争であるからだ。
清浄にして確固たる宇宙観は、政治的にも哲学的にも厭わしい。人生のいわゆる「おもしろさ」とはすべて本題とは関係のないことにあるのだ。(pp.102-103)
なお、香港が「戦場」になった1941年12月8日については、「傾城の恋」でも記述されている*1