言語学的オーパーツ

オーパーツ」について、Wikipediaでは以下のように記述されている。


オーパーツは、それらが発見された場所や時代とはまったくそぐわないと考えられる物品を指す。英語の「out-of-place artifacts」を略して「OOPARTS」とした語で、つまり「場違いな工芸品」という意味である。

米国の動物学者で超常現象研究家のアイヴァン・サンダーソンの造語で、同国の作家、レニ・ノーバーゲンの著書を通じて一般に広まった。サンダーソンは発掘品の類のみを指す言葉だとして、伝世品の類はオープス(OOPTH; out of place thingの略)と呼ぶことを提唱していた。ただし、ノーバーゲンは伝世品も併せてこう呼んでおり、現在では伝世品も区別せずにオーパーツと呼ぶことが多い。

日本語では「時代錯誤遺物」「場違いな加工品」と意訳されることもある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%84


An out-of-place artifact (OOPArt) is an artifact of historical, archaeological, or paleontological interest found in an unusual context, that challenges conventional historical chronology by being "too advanced" for the level of civilization that existed at the time, or showing "human presence" before humans were known to exist. Other examples suggest contact between different cultures that are hard to account for with conventional historical understanding.

The term is used largely by cryptozoologists, proponents of ancient astronaut theories, young Earth creationists, and paranormal enthusiasts. It can describe a wide variety of objects, from anomalies studied by mainstream science and pseudoarchaeology far outside the mainstream to objects that have been shown to be hoaxes or to have mundane explanations.

Critics argue that most purported OOPArts which are not hoaxes are the result of mistaken interpretation, wishful thinking, or a mistaken belief that a particular culture could not have created an artifact or technology due to a lack of knowledge or materials. In some cases, the uncertainty results from inaccurate descriptions. For example: the Wolfsegg Iron was said to be a perfect cube, but in fact it is not; the Klerksdorp spheres were said to be perfect spheres, but they are not; and the Iron pillar of Delhi was said to be "rust proof", but it has some rust near its base.

Supporters regard OOPArts as evidence that mainstream science is overlooking huge areas of knowledge, either willfully or through ignorance.[1] Many writers or researchers who question conventional views of human history have used purported OOPArts in attempts to bolster their arguments. Creation science relies on allegedly anomalous finds in the archaeological record to challenge scientific chronologies and models of human evolution. Claimed OOPArts have been used to support religious descriptions of pre-history, ancient astronaut theories, and the notion of vanished civilizations that possessed knowledge or technology more advanced than that of modern times.
https://en.wikipedia.org/wiki/Out-of-place_artifact

本題だけど、


某氏は1970年代の東京でヤンキーをしていた。
1980年の或る日、某氏は新小岩ソープランドで童貞を失った。


という記述を、言語学オーパーツと呼んでいいのだろうか。
1980年に「 ソープランド」という施設は存在していなかった。


現在の「ソープランド」の名称は、かつては「トルコ風呂」という名前で呼ばれていた。「トルコに行く」とか「トルコの子」等は、国のトルコや、トルコ料理トルコ人を意味することではなかったのだ。すべて性風俗店をイメージさせる言葉だった。
1984年、東大のトルコ人留学生や、トルコ大使館などからの苦情により、「トルコ」と呼ぶのをやめようという動きが小池百合子氏らの協力でおきた。そこで、東京都特殊浴場協会が、一般に呼びかけ、提案されたのが、「ソープランド」「ロマン風呂」「浮世風呂」「コルト」「ラブリーバス」「オアシス」「ロマンス風呂」「ラブユ」などが提案され、それらの中から、「ソープランド」が選ばれ、現在の呼称となっている。
神田敏晶「「イスラム国」は「トルコ風呂」と一緒!」http://bylines.news.yahoo.co.jp/kandatoshiaki/20150212-00042973/ *1
また、1970年代において、「ヤンキー」というのはまだ関西弁であって、日本語(共通語)ではなかった*2。東京附近において、「ヤンキー」には米国人という意味しかなかったし、髪の毛をリーゼントにしているような人たちは「ツッパリ」と呼ばれていた。私が今使われているような意味における「ヤンキー」という言葉を知ったのは、嘉門達夫の歌を通してであり、1980年代の後半だったと思う。
言語学オーパーツ出現の原因は、参照=言及される出来事が生起することと、それが言語化され・語られることとの間に時間差が存在することに先ず求められるだろう。過去と現在。過去を語るのに現在の影響はどうしても免れることはできない。現在の過去への混入。また、現在において、過去のことは現代の誰かに向けて語られる。そこで発生しうるのは、過去を知らない(と想定された)現在の聞き手や読者への忖度。或いは、いちいち説明するなんて面倒臭いぜという意識。また、現在において支配的な政治的その他の〈正しさ(correctness)〉との妥協。
最近、或る小説を読みながら、この言語学オーパーツが凄く気になったのだった。
上村由紀子「朝ドラ『なつぞら』20%超えだけど……広瀬すずらの圧倒的“令和感”ってどうですか? いやいや、昭和30年代にこの表現は使わないべさ」*3に曰く、

なつ(広瀬すず)がアニメーション制作会社「東洋動画」に入社したのは1956年で、今はそこから数年が経過。時代性の無さでいえば、なつのファッションや登場人物のメイク、東洋動画内のセットデザイン等もそうですし、じつはせりふの扱いにも「ん?」となる箇所がちょいちょい出現。

 たとえば、新作アニメ『わんぱく牛若丸』のキャラクターデザイン決定の日、遅刻が決定的になったなつの「やばっ」という一言や、なにかを断る時の「大丈夫です」という否定の仕方、雪次郎(山田裕貴)が「風車」のカウンター内で作ったロールケーキを食べた咲太郎(岡田将生)の「普通に旨い」の一言……いやいや、昭和30年代にこの表現は使わないべさ。

 また、東洋動画内の人間関係も非常に現代的。確かに「仕上課の女性社員は男性社員のお嫁さん候補」といったせりふもありましたが、動画チームで一番下っ端のなつが上司や先輩に同等の立場でモノを言っても誰にも責められない。いくらクリエイターの集団といえど、上下関係も女性が下に見られる環境も、60年前は今よりずっと厳しかったはず。ですが『なつぞら』で描かれるものづくりの世界は、煙草の煙がまったく上がらない室内を含め、いろんな意味で超絶クリーン。

 さらに、なつが上京したいと十勝の家族に話した時も、雪次郎が「川村屋」での修業をやめ、役者になりたいと言い出した時も、大人たちがとっても優しい。最後は全員が笑顔で若者の「夢」を後押しする展開からは、当時の「筋」や「常識」「家長制度」の表現が綺麗に抜け落ちている気がします。

いちいち気にし出したら時代劇なんてできないじゃん! と言われればその通りなのだけど。