「大野屋」(メモ)

小池喜明「「武士の商法」」『サティア』(東洋大学井上円了記念学術センター)48、pp.20-23、2002


「繁栄の焦点を大阪に出店して大儲けした」越前大野藩(土井家、4万石)*1の話。


利忠*2に抜擢されて改革の中心となり、約8年で負債の返還に成功した内山良林(のち家老)は、さらに安政二年、藩産物会所の「棚」(出張所)として「大野屋」を大阪に開業した。当初、煙草・蚊帳などの大野特産品の販売を主とした大野屋は、早くも翌年には箱館支店を開設、藩内から藩札で仕入れた品を上方で現銀で売り、その金で北海産物を有利に仕入れ、これを大阪・江戸で販売という、この繰り返しで急激に発展した。
当時の大野は、「東の佐倉、西の大野」と呼称された蘭学先進国であった。藩からの派遣で江戸の佐久間象山*3の門に学んでいた、良林の弟隆佐は兄と図り、当時幕府から拡販に要請されていた北海道開拓に積極的に応募し、その名目で幕府から洋式帆船大野丸の建造許可を得るや、徹底的にこれを大野屋業務に利用した。さらに外国通の彼は開国後の状況に備えて、外国貿易はもちろんのこと、当時の日本と海外の銀相場の差(三倍)に注目し、慶長から天保までの小判の買占めを強力に兄に進言している。
そしてこの兄弟は、ほとんどすべての大野屋の利潤を人材の招聘と養成、蘭学所・病院(一般開放)の設立運営、兵器の購入製造にまわし、他方、大野丸購入資金は阿波蜂須賀候より借り入れ、幕府からは「北辺警備」・「北方開拓」という国家的事業への協力を名目として三万四千両という巨額資金の調達に成功している。「武士の商法」には侮り難いものがある。(p.20)