北朝鮮とアフリカ(メモ)

「偉大なるチョソンの威光はアフリカへ!!!」http://syuturumu.hatenablog.com/entry/2019/06/20/163328


北朝鮮とアフリカを中心とする「第三世界」との関係について。それは中蘇対立の谷間から生まれた;


中国とソ連の関係が悪化し本格的な武力衝突に発展したタイミングで北朝鮮は独自の外交を方針を模索し始めました。まさに“主体”的に動いたのです。

 1969年。中国とソ連の間で国境紛争が発生した年、アフリカのマリに最初の北朝鮮イデオロギー思想である主体思想(チュチェ)思想研究グループが生まれます。その後、70年代にかけてチュチェ思想研究の組織はアジアとアフリカで増え続け70年代末には800以上の研究組織が立ち上がります。この70年代は中国にとって対米関係の修復とイデオロギーの調整のタイミングです。これもまた北朝鮮が独自の対外政策に向く大きな原因になります。


北朝鮮は中国の主導的影響力を振り切り様々なかたちで「第三世界の反米闘争」を支援していきます。ベトナムへの軍事支援、アンゴラ内戦への介入などなど。

 その過程でアフリカへの外交活動は一時期の中国をしのぐ勢いを見せました。70年代末までに北朝鮮はアフリカ諸国に1500人あまりの軍事顧問を派遣し、ほかに21のアフリカ諸国に3億ドル近くの経済援助を行いました。この成果か、ジンバブエで独立解放闘争を指導したムガベが最初に訪問したのは北朝鮮でした。

因みに、1981年に北朝鮮は人口1人当たりの米ドル換算のGNPが中国の2倍以上あったのだった*1
1980年代、北朝鮮アフガニスタン内戦を巡っては蘇聯を支持したが、インドシナ半島においては(シアヌーク*2とのコネクションのせいか)ヴェトナム、さらには蘇聯と敵対した。悪く言えば分裂している、良く言えばバランスを取っていると思った。アフリカ大陸において中蘇が確執していた場所といえば、エチオピアエリトリア*3だったけれど、愛知大ピアにおいて北朝鮮は如何に振る舞ったのか?

*1:レオン・ヴァンデルメールシュ『アジア文化圏の時代』(福鎌忠恕訳)、p.12. Mentioend in https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20111224/1324751682

アジア文化圏の時代―政治・経済・文化の新たなる担い手

アジア文化圏の時代―政治・経済・文化の新たなる担い手

*2:See https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20121016/1350347548

*3:See eg. https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20160822/1471890981