持続した「反米」

種村季弘*1「オキュパイド銀座」『銀座百点』565、pp.42-44、2001


曰く、


敗戦直後の銀座で働いていたことがある。中学二、三年のころのことだ。学生援護会の斡旋で(ほんとうは中学生はいけないのだが)ノート、ピーナツ、ライター・オイル、はてはネズミのおもちゃのガセネタを、それも、きょうは三原橋、昨日は土橋*2、明日は数寄屋橋というふうに転々と場所を変えて屋台を出していた。(p.42)

土橋の向こう正面に新橋駅が見える。橋のこちら側はピーナツ屋台、新橋よりの屋台には退役軍人が草花の種をならべて商っている。元陸軍大佐と中学生は、よく弁当のおかずを交換しあった。(pp.42-43)

たとえば元全線座のPXから数人のGIが出てくる。ギャバジンのズボンのお尻がプリプリしている若い兵隊たちだ。そいつが通りすがりにこちらの屋台のピーナツをヒョイと失敬していく。「ヘイ!」となんとか声をかけて後を追うと、今度は別動隊が底からごっそりとかっぱらって反対方向に走る。手のつけようがない。元陸軍大佐もこれには有効な戦略戦術を打ち出せないようだった。(p.43)

戦後から何十年も経って、銀座にはもうPXもなければGIもいない。今の銀座にもアメリカ人はいるが、それはドイツ人もフランス人も中国人もいるというのと同じことで、一つの国民とその軍隊が他国の街を占拠しているのとは意味が違う。米兵のみがわがもの顔に独占していた占領下の銀座には品がなかった。多様な民族、多様な人々を寛容に静かに受け入れている戦前の、あるいは今の銀座のような品格がなかった。
わたしはGIの屋台襲撃事件以来、すっかり反米感情にとりつかれて、大人げないとは思うが、たとえ機会があってもアメリカには行きたくないと思っている。六本木、赤坂のような、アメリカ人のいそうな場所にはなるべく近づかない。なにか(たとえば星条旗)一色にそまった街は多様な価値観を許さない。(後略)(p.44)
種村先生の、「屋台」商売も持続する「反米感情」のことも知らなかった。