あなたの馬たちを捉まえて、或いは共通感覚或いは隠喩性

承前*1

外国語学習の科学―第二言語習得論とは何か (岩波新書)

外国語学習の科学―第二言語習得論とは何か (岩波新書)

白井恭弘『外国語学習の科学』から。
何故非ネイティヴは「文法的にはなんの問題も」ないけれど「非常に奇妙な」文を作ってしまうのか。白井氏は「文法規則」が「すべてに一〇〇パーセント適用できるわけはな」いこと(p.88)、つまり「言語はルールでは割り切れない」こと(p.91)に注意を喚起し*2、「慣用句とか熟語、イディオムと呼ばれる表現」(p.88)を採り上げる。例えば、hold one's horses(「はやる気持ちを押さえる」)という句(p.89)。これは過去形では使えない。「文法」によってこのことを説明することはできないけど、英語のネイティヴにとって、He held his horses.という文は不自然きわまりない。何故駄目なのか説明してみろと問い詰められても困るけれど、とにかく駄目なものは駄目、ということになる。ネイティヴのこうした共通感覚(常識)を共有するように努めるということが肝要だということになる。
共通感覚ということと関係あるのだろうか。さらに後の箇所で、「予測文法」というのが紹介されている(p.136)*3。 「英語がある程度できるようになった人は、John gave me...と聞いたら、次に何がくるかは、無意識のうちに瞬時に予測することができます」。ネット検索とかで使われるsuggestion機能みたいなもの? Brian Christian氏がsuggestion機能のことを文学の敵として言及しているのだが(The Most Human Human*4, pp.247-250)、今それに詳しく関わる余裕はない。

The Most Human Human: What Artificial Intelligence Teaches Us About Being Alive

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話を戻す。 hold one's horsesは隠喩的な表現。つまり「馬たち(horses)」によって内面の焦りのようなものを表現しようとしている。白井氏は、これに続けて、spill the beans(「秘密をもらす」)という表現を採り上げている(p.89)。この表現は受動態にすることができない。たしかに狭い意味での文法によって、これを説明することはできない。ここでは「秘密」(secrets)≒「豆(beans)」という関係が成立しているのだが、受動態になってbeansが主語になると、隠喩性が剥落してしまい、ただの(字義的な)豆になってしまう。まあ、日本語において「骨が折れる仕事」とか「腹を割って話す」といった隠喩表現が機能しなくなっているということが言われている*5。もしかして、hold one's horsesも spill the beansも最近ではそもそも隠喩表現としてしないことも多々あり、若い奴らはものを知らないといった嘆きも出ているということはないのだろうか。何が言いたいのかといえば、コミュニティの共通感覚は決して斉一なものではないだろうし、また流れる川の如く或いは寄せては返す海の波の如く、時々刻々と変化しつつあるものなのではということ。

*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20140924/1411529143

*2:ここでいう「ルール」というのはかなり狭い意味での「ルール」。或いは、狭義の「文法」よりも語用論的ルール、修辞学的ルールの方が重要だということかも知れない。

*3:See J. W. Oller Jr. “Some working idieas for language teaching” in J. Oller & P. Richard-Amato (eds.) Methods that work: A smorgusbord of ideas for language teachers, Newburry House, 1983

*4:Mentioned in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20140704/1404438131 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20140823/1408757996

*5:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070503/1178193559