弥生のゆるさ

齋藤亜矢*1弥生人と絵文字」『図書』(岩波書店)830、2018、pp.46-49


少しメモ。


総じて、縄文の造形物は、とにかくエネルギッシュで、「なんだこれは!」と人を惹きつけるものがある。なにやら謎めいた深い意味を予感し、用途を超えた「表現」を感じさせるのだ。
それに比べると弥生の土器は、アートいうよりはデザインに近いかもしれない。表現のための形ではなく、使うための形。それも用の美を追求したミニマムなデザインという印象だ。(pp.46-47)

だから弥生人の絵を見て最初はギャップを感じた。実用的なものを好むクールなイメージとは異なり、親近感がわくような「ゆるい」絵なのだ。
たとえば人物の表現。頭は丸、体は四角、手足は棒といった、いわゆる棒人間だ。顔が描かれているものも、点三つで目と口、そこに横棒を足して眉毛という調子。それも下がり眉の気の抜けた表情だったりする。
そんな絵が、一部の土器や石器、木器、青銅器に描かれている。ベンガラの赤など顔料を使ったものもあるが、線刻が圧倒的だ。人間、シカ、ヘビ、魚などの動物のほか、想像上の動物である龍も描かれている。(p.47)

かれらの絵を「ゆるい」と感じるのは、それが絵文字やマンガを思わせるからだろう。きわめて記号的な絵なのだ。「見たもの」を描く写実的な絵ではなく、「知っているもの」を描く記号的な絵。人間には、頭があって体があって、手が二本、足が二本、というような、頭のなかにある表象スキーマ(その対象についての一連の知識)を表している絵だ。
ずっと古い旧石器時代のショーヴェ洞窟の壁画の方が、写実的でデッサンに近い。だからといって弥生人の絵が稚拙だとか原始的だとかいうわけではない。そもそも弥生人クロマニョン人も、同じホモ・サイエンスであるわたしたちと脳の構造や認知的な能力に違いはない。
弥生人の絵は、できるだけ手数を少なく、最小限のタッチで「なにか」を表そうとしているように見える。それも、現代のわたしたちと同じようなやりかたで記号化しているのだ。対照的に、写実的な絵の場合は「どんな」も細かく描写され、含まれる情報量が多い。でもそのぶん描くのに時間がかかるし、技術も必要だ。だから「なにか」を伝えるためには、記号的な絵の方がずっと効率がいい。土器や青銅器の曲面を削って描くのにも、その方が適している。(ibid.)