- 作者: 仲正昌樹
- 出版社/メーカー: 講談社
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Eichmann in Jerusalem (Penguin Classics)
- 作者: Hannah Arendt
- 出版社/メーカー: Longman
- 発売日: 2006/09/26
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仲正昌樹『今こそアーレントを読み直す』*1から。
『イェルサレムのアイヒマン』、その「悪の陳腐さ」を巡って*2。
(前略)アイヒマンが「平凡な市民」だということは、他の「平凡な市民」も同じような立場に立たされたら、彼と同じように振る舞う可能性が十分にある、ということである。言い換えれば、「私」自身も「アイヒマン」になり得る、ということだ。(p.66)
(前略)ある重大な犯罪あるいは不祥事に関して、「あなたも同じことをやるかもしれない」と言われると、多くの人は、「そんなこと言われたら、実行した人間の責任追及をできなくなるではないか! 責任を曖昧にしたいのか?」と思って、感情的に反発する。普通とは違う異常な判断・振る舞いをすると想定しているからである。そうした想定によって、「問題になっている悪者」と「この私」の違いを確認し、安心して悪者を糾弾できるようになるのである。
もし「私」と「悪者」の間に共通要素があるとすれば、「私」が「悪者」を糾弾している論理によって、いつか「私」自身も糾弾されることになるかもしれないので、不安になる。というよりも、糾弾している「私」の論理が、「私」自身にそのまま当てはまってしまうかもしれない。そのことが分かっていて内心びくびくしているからこそ、「悪者」の「人格」の内に、(私のような)「普通の人間」には見られない”悪の根源”のようなものを見出そうとするのである。
また、そうした”悪の根源”追求は、その際立った「悪者」との対比を通して、「私たち」の正常なアイデンティティを確認し合うことにも繋がる。容赦なく「悪」を攻撃する姿勢を示す「私」たちは、健全な理性を持った”まともな人間”なのである。際立って異なっている「他者」との対比を通して、「私」あるいは「私たち」のアイデンティティを確認するというのは、まさにアーレントが『全体主義の起源』で論じた、全体主義が生成するメカニズムである。全体主義という、いわば”究極の悪”とも言うべきものを糾弾しようとする「私(たち)」の営みが、全体主義に似てくるというのは非常に皮肉な現象である。
これは、現代日本の日常風景、特にメディアでの犯罪やスキャンダル報道等でも、しばしば見られる現象だ。マス・メディアで、同情の余地のない極悪な犯罪者、うさんくさい新興宗教団体、汚職政治家、不祥事を起こした企業の経営者などが登場すると、それらの人々がどうしてそのような”非人間的行為”に及んだのか、その人となり、人間関係、生い立ち等が詳しく報道される。その人格の特異性を分析するために、心理学、犯罪学、社会学、コミュニケーション論(?)などを専門にするコメンテータが動員される。問題の「悪人」が、他の人間とどう違うのかその特異点が”明らか”になると、一応、報道する側も視聴者も安心するが、特異点がなかなか見つからないと、落ち着きが悪くなる。仕方なく、「現代人の心の闇」というような言い方で、お茶を濁すことになり、後味の悪さが残る。(pp.66-68)
The Origins of Totalitarianism (Harvest Book, Hb244)
- 作者: Hannah Arendt
- 出版社/メーカー: Mariner Books
- 発売日: 1973/03/01
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*1:Mentioned in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20180214/1518610134
*2:私は通常banalityを「凡庸さ」と訳している。See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20120623/1340377615 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20130502/1367461468 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20160201/1454311360 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20180127/1517069996 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20180214/1518610134