違いと類似など

今こそアーレントを読み直す (講談社現代新書)

今こそアーレントを読み直す (講談社現代新書)

Eichmann in Jerusalem (Penguin Classics)

Eichmann in Jerusalem (Penguin Classics)

仲正昌樹『今こそアーレントを読み直す』*1から。
イェルサレムアイヒマン』、その「悪の陳腐さ」を巡って*2


(前略)アイヒマンが「平凡な市民」だということは、他の「平凡な市民」も同じような立場に立たされたら、彼と同じように振る舞う可能性が十分にある、ということである。言い換えれば、「私」自身も「アイヒマン」になり得る、ということだ。(p.66)

(前略)ある重大な犯罪あるいは不祥事に関して、「あなたも同じことをやるかもしれない」と言われると、多くの人は、「そんなこと言われたら、実行した人間の責任追及をできなくなるではないか! 責任を曖昧にしたいのか?」と思って、感情的に反発する。普通とは違う異常な判断・振る舞いをすると想定しているからである。そうした想定によって、「問題になっている悪者」と「この私」の違いを確認し、安心して悪者を糾弾できるようになるのである。
もし「私」と「悪者」の間に共通要素があるとすれば、「私」が「悪者」を糾弾している論理によって、いつか「私」自身も糾弾されることになるかもしれないので、不安になる。というよりも、糾弾している「私」の論理が、「私」自身にそのまま当てはまってしまうかもしれない。そのことが分かっていて内心びくびくしているからこそ、「悪者」の「人格」の内に、(私のような)「普通の人間」には見られない”悪の根源”のようなものを見出そうとするのである。
また、そうした”悪の根源”追求は、その際立った「悪者」との対比を通して、「私たち」の正常なアイデンティティを確認し合うことにも繋がる。容赦なく「悪」を攻撃する姿勢を示す「私」たちは、健全な理性を持った”まともな人間”なのである。際立って異なっている「他者」との対比を通して、「私」あるいは「私たち」のアイデンティティを確認するというのは、まさにアーレントが『全体主義の起源』で論じた、全体主義が生成するメカニズムである。全体主義という、いわば”究極の悪”とも言うべきものを糾弾しようとする「私(たち)」の営みが、全体主義に似てくるというのは非常に皮肉な現象である。
これは、現代日本の日常風景、特にメディアでの犯罪やスキャンダル報道等でも、しばしば見られる現象だ。マス・メディアで、同情の余地のない極悪な犯罪者、うさんくさい新興宗教団体、汚職政治家、不祥事を起こした企業の経営者などが登場すると、それらの人々がどうしてそのような”非人間的行為”に及んだのか、その人となり、人間関係、生い立ち等が詳しく報道される。その人格の特異性を分析するために、心理学、犯罪学、社会学、コミュニケーション論(?)などを専門にするコメンテータが動員される。問題の「悪人」が、他の人間とどう違うのかその特異点が”明らか”になると、一応、報道する側も視聴者も安心するが、特異点がなかなか見つからないと、落ち着きが悪くなる。仕方なく、「現代人の心の闇」というような言い方で、お茶を濁すことになり、後味の悪さが残る。(pp.66-68)
The Origins of Totalitarianism (Harvest Book, Hb244)

The Origins of Totalitarianism (Harvest Book, Hb244)

私も、重大犯罪事件が起こったりすると、その犯人(容疑者)の「生い立ち」とか「人間関係」とかが気になる。でも、それは仲正氏が言っているのとはちょっとずれているようにも思うのだ。一方で、彼(彼女)の方は犯罪に手を染めてしまったが私の方は幸いにしてまだ手を汚していないという違いがある。その一方で、同じ人間なんだし、私と彼(彼女)の間にはそんなに本質的な差異があるわけではないということがある。だとしたら、私と彼(彼女)との違いは、生まれてから現在に至るライフ・ヒストリーの中にある。だから、この「特異性」探しはかなり両義的なものになる。つまり、私が彼(彼女)のような犯罪者ではないのはかなりラッキーな偶然の帰結でしかないということになりかねない。それに比べて、事態を脳とか遺伝子に還元してしまう生物学還元主義や、男だから、女だから、ユダヤ人だから、アラブ人だから、朝鮮人だから、日本人だからという本質主義(性差別やレイシズム)の方が「安心」の度合いは高いといことになるけれど、その場合、もう既に「全体主義」に入っていると言えるだろう。