永田和宏『近代秀歌』

近代秀歌 (岩波新書)

近代秀歌 (岩波新書)

永田和宏『近代秀歌』*1を昨日読了。


はじめに


第一章 恋・愛――人恋ふはかなしきものと
第二章 青春――その子二十柳にながるる黒髪の
第三章 命と病い――あかあかと一本の道とほりたり
第四章 家族・友人――友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
第五章 日常――酒はしづかに飲むべかりけり
第六章 牛飼が歌よむ時に
第七章 旅――ゆく秋の大和の国の
第八章 四季・自然――馬追虫の髭そよろに来る秋は
第九章 孤の思い――沈黙のわれに見よとぞ
第一〇章 死――終りなき時に入らむに


あわりに
あとがき
引用・参考文献
本書で一〇〇首に取り上げた歌人
一〇〇首索引

近代の短歌を10のテーマ別に100首。「ベスト一〇〇や、十分条件としての一〇〇ではなく、必要条件としての一〇〇」(p.v)。「挑戦的な言い方をすれば、あなたが日本人なら、せめてこれくらいの歌は知っておいて欲しいというぎりぎりの一〇〇首であるというつもりである」、と(ibid.)。なので、著者が「苦手」であるという釈迢空折口信夫)や会津八一*2の歌も収録されている。会津八一については、「どうも生理的に受けつけないのだ」と言い捨てられているのに(p.149)。残念ながら、私は「日本人」として合格点をもらえなかったようだが、そんな私でも知っている歌と再会することができたので、近代短歌のアンソロジーとしては成功しているのではないかと思う。
さて、「あとがき」から、著者が「必要条件としての一〇〇」と言っていることの〈知識社会学的〉背景を引用してみる;

(前略)私は、現在の社会から、共通の知的基盤というべきものが消失していく現状に危惧を抱かざるをえないのである。友人や知人とじっくり話をするという習慣が、特に若い人たちのあいだから失われつつある。話題といえば、昨日テレビで見たお笑いやバラエティ番組、スポーツか芸能にかぎられるということでは、あまりにもさびしい。相手の意見を聞いて、そこに次々に自分の考えをつけ加え、そこから話題が展開するということがない。話題が散発的なのである。そこには刹那的な〈会話〉はあっても、意見や考え方のやり取りとしての〈対話〉の喜びや発展はないだろう。
何かを質問しても、「別に」のひと言ですましてしまうような人間関係、自分の興味あるところでしか会話が成立せず、自らの生活に直結しない問題には、一向に興味を示さないようなサークルには、本当の意味での友人という関係は成立しがたい。ネット情報に一人で浸りこんでいて、ほとんど他人との会話を必要としないかのように見える若者は、ますます増えていくのだろうか。
わが国には言うまでもなく、先人たちの多くの知的財産が残されている。私自身は、それらの限りない知的財産から、最低限共通の知的基盤を共有していたいものだと願っている。もとより読書だけでそれらを獲得できるものではないだろうが、いっぽうで『嵐が丘』を読んでいない友人とは、ヒースクリフの心情について話をすることはできないわけである。
友人たちとそんな会話ができなくとも、われわれは十分に生きていける。しかし、そんな会話ができるかできないかを天秤にかければ、できるほうが、日々の生活に豊かさをもたらしてくれるだろうことはあらためて言うまでもないだろう。
現代では、同じ職場でも、同じ学校でも、そして同じ地域のなかでも、人々の関係が希薄になってゆくことを嘆く声は大きいが、そのひとつの理由は、互いに話をできるだけの共通の基盤を持たないことがあるだろうと、私は思う。私は教養という言葉を軽々しく使いたくないと思っている人間であるが、教養というものを、自らの知的好奇心によって収集された知識を内包しつつ、その反映としての人間性の発露を言うとするならば、ある程度の、あるいは、最低限の共通の供用を持っているということは、他の人々と接するための、つつしみぶかい礼儀の一つであると思うのである。(pp.244-245)
  
Wuthering Heights

Wuthering Heights

嵐が丘 (1960年) (岩波文庫)

嵐が丘 (1960年) (岩波文庫)

個々の歌の解釈については、歌における言葉が醸し出すリズムが重視されているということを申し添えておく。また、伝統的(古典的)な「和歌」と近代以降の「短歌」との連続性と切断性に関しても、その目配せの仕方のバランスが取れているなと思った。