戸田山和久on 「文化」

戸田山和久「知識のイヤミったらしさとどうつきあうかについて、あるいは「豊かな知識」に何の意味があるのかについて」『ちくま』556、2017、pp.28-33


『とびだせ教養』という連載の一部。
連載の「前回」を踏まえているのだが、勿論「前回」は読んでいない。


(前略)無知な人にはおわかりにならにざんしょうけど、それなりの作品には知識のある人だけが楽しめる仕掛けがあるざますのよね。それに気づけずに「感動した」とかおっしゃる方々って、まあ一二歳並みのオツムでお気の毒、って言ってたわけでしょ。しぇー、イヤミだなあ。(p.28)

イヤミな話になったのには二つの理由がある。一つは、筆者がじっさいイヤミな奴だから、*1というもの。(略)もう一つの理由は、そもそも文化ってそういうイヤミな構造をもつものだから、>*2というものだ。これは、つねに文化が階級とか階層とかに結びついてきたことに関係する。異なる階層には異なる文化が発展してくる。「上」の階層は「下」の階層の文化を、下品だ、ヤンキーっぽい、ってストレートにバカにする。下は下で上を、鼻持ちならない、お高くとまっている、といってこれまたねじれた仕方でバカにする。「下」の人がお高級な文化を身につけようとすると、付け焼き刃、俗物といってバカにされる。で、結局みんながみんなをバカにしまくり。
文化のアイテムには良し悪しの判断が必然的に伴う。すると、それを測る尺度が出てくる。そして、今度はその尺度によって人々のランクづけが行われる。知識の多寡、理解の深浅、趣味の良し悪しによる序列化だ。こうして「ワカルやつ」と「ワカランやつ」の区別が生まれ、両者の反目も生まれる。そして、ワカルやつはその序列をさらに登ろうとするし、ワカランやつの中には別の尺度をつくって、その尺度に照らしてワカルやつになろうとする者が現れる。でも、こんどはその中にワカルやつとワカランやつが生じてきて、以下同様。こうして、文化は多様化し豊かになると同時に、人々のランキングもどんどん微に入り細に入り複雑化する。これって避けがたい。(ibid.)
何だか、ブルデュー*3している。Distinction!
さて、戸田山氏は、「そもそも知識、理解、趣味にそういう尺度があるのがけしからん」「こうした尺度を無効化してしまえ」という意見、つまり(戸田山氏はここでは使っていないが)文化相対主義には与さないという。そこから、

(前略)文化と階級・階層が結びついてきたからというので、文化なしでいきましょう、とか一種類の文化だけでいきましょう、ということにしたらどうなるかと想像してみればわかる。歴史上これに類することが実行されたことは何度かある。その結果は悲惨なものだった。たとえば、カンボジア共産党*4の指導者ポル・ポトが試みた文化革命もそうだろう。都市に巣食う知識人層は資本主義的悪徳の根源である。そう考えて、学者・医師・教師を含む知識階級の虐殺や都市住民の農村への強制移住が始まった。やがて歯止めを失った虐殺の対象は農村住民にまで広がった。おおよそ一〇〇万人から二〇〇万人の人々が殺された。(p.29)
文化相対主義から「クメール・ルージュ*5への理路がわからない。ただ、その次のパラグラフの論述はとてもわかりやすい;

文化のもつイヤミで差別的な構造と、文化の多様性と豊かさとは表裏一体である。われわれは現在、能も歌舞伎も、謡曲義太夫浪花節も民謡も楽しむことができる。それは、文化が階層と結びついて発展してきたからだ。「上」からの軽蔑と「下」からの反発が動因となって文かは豊かになる。だから、文化というものは多少の悪徳の匂いを伴う、毒のある土壌に咲いた花のようなものだ。その花にも毒がある。これを知らずに手放しで礼賛するのは能天気だが、その花の美しさに鈍感なのも不幸なことだ。(ibid.)
さらに後の方では、「物知りであることは人生をより楽しくする、あるいは楽しい人生そのものである」こと、「楽しく生きること」は殊更正当化される必要なのない「われわれの究極目的」だろうということが議論されている(p.32)。