「二大政党」など

尾関章堺利彦に学ぶ「対抗勢力」のつくり方」http://book.asahi.com/reviews/column/2014022700005.html


2014年のテクスト。黒岩比佐子さん*1の遺作となった『パンとペン 社会主義者堺利彦と『売文社』の闘い』の紹介なのだが、冒頭の方に「二大政党」制の挫折や日本における左翼の「分裂」のことが語られている。


1990年代に55年体制が終わり、衆議院議員選挙に小選挙区制がもち込まれたころ、人々の頭の中には二大政党制のイメージがあった。権力を手にした与党に、次をうかがう野党がにらみを利かす。だから与党も独断専行とはいかない。有権者は、選挙のたびに投票のさじ加減で世の中を動かせる――そんな民主主義の醍醐味を実感できるはずだったのだが、いま僕たちの前にはまったく違う現実がある。

 それには、わけがある。二大政党のもう一つの柱となるべき政党が寄り合い所帯だからだ。保守政党にいた人がいる。社会主義政党にいた人がいる。市民運動家だった人もいれば政経塾出身の新世代政治家もいる。労働組合出身の人がいるかと思えば、労組依存を嫌う人もいる。いろいろな人がいるのはよいことだが、色合いの異なる人々の志を緩く束ねる大きな方向性が見えてこない。だから、二大政党をつくるためだけの政党になってしまった。

 世界を見れば、そんなことはない。欧州には、保守勢力に対して社会民主主義勢力がしっかり根を下ろしている。欧州社民は90年代、ソ連崩壊の記憶が生々しいころでも政権を次々に奪い取り、英国にブレア政権を、ドイツにシュレーダー政権を生みだした。米国はどうか。二大政党ともそれぞれの議員の主張に幅があるが、大きくみれば共和党が保守を代弁し、民主党がリベラルの側に立つという構図がみてとれる。

 では、どうして日本には保守に比肩する「対抗勢力」がないのだろう。この問いに答えを出すのはなかなか難しい。ただ、その根深さは僕らの世代には皮膚感覚でわかる。左翼が分裂する光景を、少年だった60年代のころからずっと見せつけられてきたからだ。

 大人の世界では、日本社会党という党がいつもゴタゴタを繰り返していた。55年、保守合同に先立って左右両派が統一したにもかかわらず、さっそく60年に右寄りの議員が飛び出て民主社会党(後の民社党)をつくった。残った党内でも、階級闘争による革命をめざす左派と構造改革路線をとる右派は互いに相容れず、その対立は委員長や書記長の改選期にいつも火種となった。

 大人ばかりではない。70年前後の学生運動を振り返れば、共産主義社会主義を掲げるいくつものセクトが乱立していた。それぞれには主張があり、袂を分かつだけの理由があったのだろう。だが、その流れの果てには、内ゲバというもっとも悲惨な事態も待ち受けていた。世直しを考えているうちに自らの信念と異なる見解を受け入れられなくなる。左翼運動の同時代史をみると、そんな心理傾向が強いような気がしてならない。

「二大政党制」の夢を煽っていたのは、例えば山口二郎先生の『イギリスの政治 日本の政治』とか*2
イギリスの政治 日本の政治 (ちくま新書)

イギリスの政治 日本の政治 (ちくま新書)

「 二大政党のもう一つの柱となるべき政党が寄り合い所帯だからだ」。これは民主党(現在の民進党)のことを言っているわけだが、そもそもは自民党も(そして社会党)もそうだった。それが共産党公明党とは区別されるアイデンティティの根拠のひとつでもあったわけだ。源流がそうなんだから、民主党民進党が「寄り合い所帯」だからといって、今更驚いてはいけない。それよりも問うべきは、自民党の変容の方だろう。
かつての自民党について、中北浩爾「保守主義から「右傾化」へ」*3に曰く、

(前略)1986年、当時のブレーンの佐藤誠三郎東大教授らが出版した『自民党政権』(中央公論社・品切れ)は、自民党が特定のイデオロギーにとらわれず、派閥や個人後援会、族議員などを通じて、多様な要求を汲(く)み上げ、変化に柔軟に対応してきたからこそ、長期政権を続けられているのだと主張した。
 現在、こんな派閥擁護論を説いたら、間違いなく守旧派のレッテルを張られてしまうであろう。しかし、佐藤は、学習院大学の香山健一教授らとともに、80年代、行政改革などに尽力した。ローマ帝国の滅亡に事寄せつつ日本の行く末に警鐘を鳴らし、土光敏夫経団連会長を驚嘆させた論文として、昨年、37年ぶりに話題になった『日本の自殺』は、現状肯定の上に立つ彼らの改革宣言であった。
なお、社会党内の抗争に関する尾関氏の叙述に完全に納得しているわけではない。