過去或いは未来?

オラクル・ナイト (新潮文庫)

オラクル・ナイト (新潮文庫)

ポール・オースター『オラクル・ナイト』*1からの抜書き。
「私」(「シドニー・オア」)はエージェントの「メアリー・スクラー」から、H・G・ウェルズ*2の『タイムマシン』をリメークした映画シナリオの仕事を持ちかけられる(pp.158-162)。金銭的報酬は魅力なのだが、「私」はウェルズの小説が 全く気に入らない。


ペーパーバックは一九六一年刊、価格は三十五セントで、ウェルズ初期の『タイムマシン』『宇宙戦争』が入っていた。『タイムマシン』は百ページ足らずで、読み終えるのに一時間ちょっとしかかからなかった。読んでみて、私はとことんがっかりした。文章も稚拙な駄作であり、冒険物語の体裁をまとった社会批判だが、冒険物語としても社会批判としてもうまく行っていない。こんな本をストレートに映画化しようと思う人間がいるなんて考えられない。そういうバージョンならもうあるわけだし、あのボビー・ハンターとかいう奴*3が本当に私の作品をよく知っているのなら、物語に何かひねりを加えることを私に臨んでいるにちがいない。本の外に飛び出して、この素材で何か新しいことをやる道を探れということだろう。そうでなければ、私に依頼してくるはずがない。(後略)(pp.162-163)
宇宙戦争 (創元SF文庫)

宇宙戦争 (創元SF文庫)


この本で何か惹かれるところがあったとすれば、その前提となっている発想、すなわち時間旅行という概念そのものである。だがウェルズ本人はこの点でもやり損なっている気が私にはした。彼は主人公を未来へ送り出すが、じっくり考えれば考えるほど、たいていの人間はむしろ過去に生きたがるはずだという確信が募っていた。義弟と3Dビューアーをめぐるジョン・トラウズの話なども*4、死者がいかに強く我々を捉えているかを示している。前に進むか後ろに戻るかが選べるなら、少なくとも私は迷うまい。いまだ生まれざる者たちのなかに紛れ込むより、もはやこの世にいない者たちと一緒になる方がずっといい。解決すべき歴史上の謎は無数にあるのだ。ソクラテスアテネが、トマス・ジェファーソンのヴァージニアがいかなる場だったか、どうして好奇心を覚えずにいられよう? あるいは、トラウズの義弟のように、失った人びとと再開したいという欲求にどうして抗えよう? たとえば、初めて二人出会った日の母と父を見たくないか? 子供だった祖父母と話してみたくないか? そうした機会を捨てて、未知の、理解不能な未来を選びとる者などいるだろうか?(略)自分がいつ死ぬか、自分が愛する人にいつ裏切られるか、そんなことを我々は知りたくない。でも死ぬ前の死者のことはぜひ知りたいと思う。生者としての死者に出会いたいのだ。
ウェルズが主人公を未来に送り込んだのは、イギリスの階級制度の不正を指摘するためだといういうことは理解できた。舞台を未来に据えることで、その不正を破滅的な規模にまで誇張することができるのだ。だがそうすることの正当性は認めるとしても、この本にはもうひとつ、もっと根本的な問題がある。十九世紀のロンドンに生きる人間がタイムマシンを発明できるのなら、未来の人びとにも同じことができると考えるのが道理である。かりに自力では無理としても、時間旅行者の助けを借りれば。そしてもし、未来の人びとが年や世紀を自由に行き来することができるとしたら、過去にも未来にもいずれ、その時代に属していない人びとがたくさんいるようになるに違いない。最終的にはあらゆる世代が汚染されて、よその時代から来た侵入者や観光客であふれてしまう。ひとたび未来の人間が過去の出来事に影響を及ぼし、過去の人間が未来の出来事に影響を及ぼすようになったら、時間というものの本質が変わってしまうだろう。一方向にのみ少しずつ進んでいく個別の瞬間の連なりではなく、巨大な、すべてが同時に起きる靄と化すだろう。要するに、一人の人間が時を超えて旅行しはじめたとたん、私たちの知っている形での時間は破壊されてしまうのだ。(pp.163-164)