「殺される」立場(小川国夫)

宗教論争

宗教論争

吉本隆明と小川国夫の対談、「生死・浄土・終末」*1(in 『宗教論争』、pp.107-153)から。
小川国夫の発言;


(前略)自分はいつも殺される側に立つという、そういう立場に自分をおいてものごとをみた場合には僕は正しく見れるという気がするんです。これは聖書的ですけれど、もちろんキリストは死についてしばしば言ってますが、死ということは自分が殺される死なんですね。人を殺す死じゃない。死というものは観念的な言葉であるけれど、同時に非常にリアルで具体的な言葉ですね。やっぱりそれを根本にすえていると思うんです。
で、自分が殺される、と。まあその殺される前後にいろいろ不思議なことがあるわけですが、そういうことがもう前にあらわれているというわけです。つまり私なら私にガンの徴候があらわれたとすると、ガンは私に鋭い身体感覚があれば、あっ、ここにガンの芽が出てきたということがわかるわけです。これはやがての死に通じるというふうに読めるわけだけれど、キリストの考えかたは、まあそれに似ていると思うんです。つまり、自分が殺されるというあらわれが、ほうぼうにぴょこぴょことあらわれる。お弟子はそれをみてもわからないわけで、それをキリストはたしなめてますね。あそこに出ているじゃないか、と。つまり、さきほど私が言った突出した事実ということなわけですが、あそこにおれが死ぬ芽が出ている。こっちにも出ている、なぜわからないかというふうに言っているわけです。そういうことは、きっと吉本さんのお考えでは、人間がある意見をもっているときに、その意見に直接つながる事実のあらわれであるかぎり直感的にわかると思うわけです。人間がいろんなことを認識するときにも、その認識のしかたは、世間をできるだけあるがままに見ていけ、そして、あそこに事実が出た、ここに事実が出ているということを見てとって、その見てとるということが僕は大事な認識だと思う。どの事実が突出していて、どの事実が何でもないのか、論ずるに足らない事実かというふうになるかということは、やはり意見が先行すると思うんですね。その人がどういう意見をもっているかということになると思う。
(略)正しく見るということは単なる理想かもしれないけれど、やっぱり単なる理想なんじゃなくて、ありえるものだと私は思いますね。だけども、まあわからない。人間にはわからない。そういう突出した事実、その人の気にかかってしかたがないという突出した事実が幾十か幾百か見えてるとすれば、見ている人の思想の問題にかかわってくるわけです。そんなふうなってこないほうが、幸福なんでしょうがね。もしそうなってしまったら、殺されるよりしかたがない。というのは、血で血を洗うことは決して正しくないし、そうなることを防ぐ唯一のてだては殺されることなんだという、死生観というんでしょうか、聖書はそれを教えていると思うんです。もしそうでないとしたら、思想にかかわる場合には良心にしたがってひとを殺すという考えかたができてしまうでしょう。(pp.141-143)
「突出した事実」;

(前略)最近トルストイが好きになって読みかえしたりしてて、また本多秋五さんの『戦争と平和論』を読みかえしたりしてるんですが、そこで、やっぱり戦況の論理というようなものがあって、戦争の渦の中に入っていくと、実際にろいろ突出した事実が、ときには意想外の事実が出てくるわけですね。それを、そのときのままのなまなましい感じで覚えていないというんですね。しばらくすると、ほんのわずかな時間でなんとなくつじつまあわせが行なわれてしまう。ひとつの戦況の説明というようなことになってしまう。それをトルストイは虚偽とよんでいるわけです。そして、それを虚偽とすればやっぱり人間はどうしようもなくそういことをしてしまうというようなことをトルストイは言っています。つまり突出した事実とか意想外のできごとのようなものが平均化されていく道をもつ。つじつまがあっていくわけですね。(後略)(p.138)