matsuiism on 本郷和人(メモ)

「中世の当事者主義」http://d.hatena.ne.jp/matsuiism/20110906/p1
鎌倉幕府の成立など」http://d.hatena.ne.jp/matsuiism/20110908/p1


matsuiismさんが本郷和人天皇はなぜ生き残ったか』を採り上げている。この本を昨年読んだ*1。感想とかをblogに上げていこうと思いつつ実際は放置していたので、matsuiismさんの読解に期待するところ大。

天皇はなぜ生き残ったか (新潮新書)

天皇はなぜ生き残ったか (新潮新書)

天皇はなぜ生き残ったか』の前半は凄く説得力があったけれど、最後の方の室町時代以降「祭祀の王」としての権能も失ってしまった天皇が何故現在に至るまで生き延びているのかという部分には議論の散漫さを感じるとともに、そうじゃないだろうという違和がある。例えば「権威」という言葉を巡っては汗牛充棟なほどの議論が人類学、社会学政治学でなされているにも拘わらず*2、『新明解国語辞典』の定義で済ませてしまうというのはちょっと安易過ぎるのでは(p.204)? また、本郷氏の議論の特徴として、幕府‐朝廷、武士‐公家(天皇)関係に焦点が当てられ、農民や商人の存在が捨象されているということがある。平安時代鎌倉時代ならともかく、室町時代以降の歴史を(特に)商人階級抜きに語ることが可能なのだろうか(戦国時代における商人階級の勃興については、例えば湯浅治久『戦国仏教 中世社会と日蓮宗』を参照のこと)。その意味で、大衆化された天皇イデオロギーは室町・戦国期における商品経済の発展とそれに伴う民衆の生活水準向上の効果であるという脇田晴子氏の議論(「天皇與中世文化」[徐洪興、小島毅、陶徳民、呉震(主編)『東亜的王権與政治思想――儒学文化研究的回顧與展望』*3]、p.2)の方に説得力を感じてしまう。この時代、農村や都市における「自治」が進み、土一揆などの民衆による「暴動」も頻発したが、その際に武士の権力や暴力に対抗して掲げられたのは無力であるが故に中立的だった天皇の権威だったわけだ(ibid.)。本郷氏は平安時代において『源氏物語』は「庶民」とは全く無関係な「一握りの知識人層」の文化でしかなかったと述べている(p.26)。『源氏物語』は日本文化でも何でもなかったわけだ。『源氏』が日本文化に押し上げられたことに対しては、能楽によるヴィジュアル的再現の貢献が大きいといえるだろう。能楽を支えていたのは武士階級であるとともに、新興の商人階級であったわけだ。商品経済の発展によって豊かになった民衆が〈文化〉を享受しようとしたとき、武士階級はモデルとならず、学術文化の「宗家」としての公家(天皇)の権威が高まったということになる。これは(後の琳派*4に連なる)本阿弥光悦などの京都町衆文化においても明らかだろう。
戦国仏教―中世社会と日蓮宗 (中公新書)

戦国仏教―中世社会と日蓮宗 (中公新書)

さて、本郷氏は「信長の政権がいま少し存続していたら、天皇家は滅びたかもしれない」という(p.215)。しかし、天皇家を滅ぼす可能性はその後の豊臣秀吉の方が強かったといえるかも知れない。秀吉といえば朝鮮侵略。秀吉の亜細亜侵略プロジェクトはたんなる領土拡張などではなく、秀吉が明朝皇帝に取って代わって「中華皇帝」になろうとするものだった。のみならず、印度まで征服して〈大東亜帝国〉を構築するプロジェクトだったわけだ。中国征服後は後陽成天皇を北京(「大唐之都」)に遷せと指示したように、そこでは天皇も「中華皇帝」=秀吉陛下によって封じられる一介の王にすぎない。さらに重要なのは、これが秀吉の非現実的な「誇大妄想」では必ずしもなかったということである。事実、秀吉と略同時代人であった満洲族ヌルハチ*5の息子であるホンタイジは秀吉の朝鮮侵略の数十年後に清朝を創設し、「中華皇帝」の座についている(岡野友彦『源氏と日本国王』、pp.214-216 )*6。ところで、秀吉のプロジェクトが成功していたら、ネーションとしての〈日本〉はなく、日本人は今頃中国の一少数民族となっていただろう。秀吉の「誇大妄想」は実際朝鮮で挫折するわけだが、この挫折のおかげで日本(人)は後にネーションとして生き残ることが可能になったともいえる。ただ、それ以前に、漢人だけでなくチベット人、蒙古人、ウィグル人等も割拠する広大な領域を統治していく能力が豊臣氏及び日本人にあったのかどうかという問題はある。
源氏と日本国王 (講談社現代新書)

源氏と日本国王 (講談社現代新書)