「アトム」を巡って2つ

森岡督行「森岡書店 銀座店ができるまで 第1回:一冊の本を売る本屋」http://dotplace.jp/archives/18766 *1


曰く、


かつて、1945年に広島には「アトム書房」という本屋がありました。原爆投下直後で、この先60年は草木も生えないと言われたなか、大連から引きあげてきた当時21歳の杉本豊という人物は、広島の復興を担おうと古本屋を始めます。米兵に溶けたガラスをお土産として売ったり、持っていた古本を売っていたのです。その様子を写真家の木村伊兵衛が写真に収めていて、広島市立図書館に保管されています。
「米兵に溶けたガラスをお土産として売った」。「米兵」はどんな気持ちで「溶けたガラス」を買ったのだろうか。
俳優で、1946年生まれの下條アトムのこと。Wikipediaから;

アトムという名前は本名であり、父・正巳が第二次世界大戦後間もなく生まれた息子を、将来は日本でもアメリカのように名前・苗字の順に呼ぶようになり、ローマ字の順に名簿も作られるだろうと考え、ならばアルファベットのAで始まる名前なら最初に呼ばれるという理由で、さらに「今後の原子力は戦争ではなく発電など平和のために使われるはずである」という願いを込めて、原子を意味する英語atomから名付けた。

手塚治虫の漫画『鉄腕アトム』は下條アトム命名より後に描かれたものであり、同名となったのは偶然の一致であるというエピソードは有名である。『鉄腕アトム』の連載当時、アトムという名の少年が実在することが話題となり、当時少年だった下條は手塚治虫と対面している。

また、ウランという名前の女の子(しかも彼女の苗字は「賀来(かく)」であり、字を変えれば「核・ウラン」である)が偶然にも下條の小学生時代の同級生におり、当時のテレビ番組『私の秘密』(NHK総合)に2人で出演したこともある。ともに現在の日本においても珍しい名前であり、これは非常にまれな出来事である。『今夜は最高!』にゲスト出演した時に『鉄腕アトム』のパロディでアトムを演じ[4]、最後に「これ一度やってみたかった」とつぶやいている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E6%A2%9D%E3%82%A2%E3%83%88%E3%83%A0

それにしても、同級生の女の子の方が凄い!
ピカドンの直後でもある)戦後における「アトム」とか「原子力」という言葉の輝きを巡っては、「原子核エネルギイ」という荒正人の1946年のテクストを採録しておく(黒古一夫村上春樹 ザ・ロスト・ワールド』からの孫引き)*2採録しておく;

原子核エネルギイの発見、創造はどんな意味をもっているのであろうか。わたくしはそれを星の人工とよびたい。(中略)こんにち人類は、星のエネルギイを獲得したのである。この無限大のエネルギイもいつかは工業化されるであろう。かくして、人類の胸を――『旧約』の記者を、空想社会主義者を、科学的社会主義者を掠めていった、あの終局の希望も実現されるであろう。それは、各人がその力量に従って働き、各人がその必要に応じて享ける、というユートピアである。

また、加藤哲郎氏の言葉*3


1945年以後の日本の核政策・エネルギー政策の歴史からすれば、原発導入を直接に担った正力松太郎中曽根康弘ばかりではなく、日本の国家と社会の総体が、大きな反省を迫られています。占領期新聞雑誌資料データベース(プランゲ文庫)を調べると、占領期日本の言説空間では、広島・長崎の原爆被害は検閲され隠されていましたが、敗戦を導いた巨大な「原子エネルギー」についての畏怖と希望は、日本国憲法制定と並行して、広く語られていました。「原子力時代」「原子力の平和利用」の言説が、大新聞から論壇・共産党機関紙誌にまで、溢れていました。右派よりも左派が、それを主導していました。占領期新聞・雑誌の見出しでの「原子力の平和利用」の最初の提唱者は、著名なマルクス主義者である平野義太郎『中央公論』1948年4月号論文でした。「社会主義原子力」を、資本主義を凌駕する「輝かしい希望」の源泉と信じていました。原子力に未来を託す「アトム」の漫画も、手塚治虫より前から出ていました。いわゆる「戦後民主主義」「戦後復興」は、「原子力の夢」にあこがれ、同居していました。
http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Living.html
村上春樹―ザ・ロスト・ワールド

村上春樹―ザ・ロスト・ワールド