共産党と原発(メモ)

Related to http://kurokawashigeru.air-nifty.com/blog/2011/03/post-b53e.html *1

共産党原発問題の見解についての歴史的変遷」http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/9dfee96d82b2491c6772b391c531cd42


ざっくりと


60年代末からチェルノブイリ原発事故以前については、
ブログ「土佐高知の雑記帳」にまとめられていました。

資料:日本共産党原発政策?
http://jcphata.blog26.fc2.com/blog-entry-2283.html
資料:日本共産党原発政策?
http://jcphata.blog26.fc2.com/blog-entry-2284.html
資料:日本共産党原発政策?
http://jcphata.blog26.fc2.com/blog-entry-2285.html
資料:日本共産党原発政策?
http://jcphata.blog26.fc2.com/blog-entry-2286.html
資料:日本共産党原発政策?
http://jcphata.blog26.fc2.com/blog-entry-2287.html

をコピーしておく。
また、http://civilesociety.jugem.jp/?eid=9126は、1990年代初頭の日本共産党原発についての見解、「脱原発」運動への批判を引用している。共産党のロジックがアレなのはともかくとして、高木仁三郎氏のことを呼び捨てではなく一応「氏」をつけて言及しているということは留意すべきか。
2000年以降の見解については、


第22回党大会決議(2000年11月)
http://www.jcp.or.jp/jcp/22taikai/22th_ketugi_201125.html#_08
不破哲三の発言(2003年6月)
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik2/2003-06-30/00_01.html#Anchor-57932
日本共産党綱領(2004年改定)
http://www.jcp.or.jp/jcp/Koryo/index.html#Anchor-17173
311後の見解(2011年6月13日)
http://www.jcp.or.jp/seisaku/2011/20110612_genpatsu_teigen.html


また、引用されたhttp://jcphata.blog26.fc2.com/blog-entry-2287.htmlの結論は中庸を得たものだと思った;


そして311を契機に原発ゼロミッション、期限を決めた原発からの撤退方針を打ち出した。
しかし、それをもって日本共産党の「原発ゼロ」政策は首尾一貫していると、強弁することは歴史を偽造することにつながるだろう。
もう一方で「原子力の平和利用」を主張していたから、日本共産党原発推進論者だったと論難することも事実に反する。

いま大切なことは原発に反対する人たちが過去の行きがかりを捨てて、力をあわせて原発からの全面撤退を求める行動を大きくすることではあると思う。

さて、上掲のエントリーの最初には加藤哲郎*2の日記から、

1945年以後の日本の核政策・エネルギー政策の歴史からすれば、原発導入を直接に担った正力松太郎中曽根康弘ばかりではなく、日本の国家と社会の総体が、大きな反省を迫られています。占領期新聞雑誌資料データベース(プランゲ文庫)を調べると、占領期日本の言説空間では、広島・長崎の原爆被害は検閲され隠されていましたが、敗戦を導いた巨大な「原子エネルギー」についての畏怖と希望は、日本国憲法制定と並行して、広く語られていました。「原子力時代」「原子力の平和利用」の言説が、大新聞から論壇・共産党機関紙誌にまで、溢れていました。右派よりも左派が、それを主導していました。占領期新聞・雑誌の見出しでの「原子力の平和利用」の最初の提唱者は、著名なマルクス主義者である平野義太郎『中央公論』1948年4月号論文でした。「社会主義原子力」を、資本主義を凌駕する「輝かしい希望」の源泉と信じていました。原子力に未来を託す「アトム」の漫画も、手塚治虫より前から出ていました。いわゆる「戦後民主主義」「戦後復興」は、「原子力の夢」にあこがれ、同居していました。
http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Living.html
という一節が引用されている。原子力と平野義太郎との関係は知らなかった。平野はたしか、〈転向〉後に満鉄に積極的にコミットし、戦後、そういう過去については口を拭いつつ、涼しい顔で〈左翼〉として再登場したという人物ではなかったっけ。さらに、加藤氏曰く、

もうひとつつけ加えれば、原発は、核兵器と同じように、旧ソ連中心の東側「社会主義世界体制」の接着剤でした。旧ソ連が、西側NATOに対抗して、東欧諸国をワルシャワ条約機構(WTO)に組み込み「プラハの春」をはじめとした周辺諸国民衆の自立の動きを武力で抑圧したように、ソ連原発原子力技術は、東側経済相互援助条約(コメコン)を通じて、東欧諸国をエネルギー基盤の面から支配し従属させるテコでした。そのため現在でも、旧ソ連社会主義の影響下にあった東欧諸国は、原発依存から脱却できないのです*3。また、下斗米伸夫さん『アジア冷戦史』(中公新書、2004年)が先駆的に明らかにしたように、中ソ対立の背景にも、ソ連の核開発技術供与をめぐるスターリンフルシチョフ毛沢東の対立があったのです。日本の左翼勢力は、こうした構図のもとで、「脱原発」に積極的になれず、「原子力の平和利用」の神話に呪縛されていました。ちょうど60年代まで、ソ連や中国の核兵器を「社会主義の防衛的核」と容認していたように。だから、高木仁三郎さん、広瀬隆さんらの「反原発」運動は、東西冷戦を背景とした社会党共産党労働組合中心の社会運動の中では、孤立を余儀なくされたのです。
ただ、「社会党共産党労働組合中心の社会運動」において反原発が周縁的なものに留まったことに関しては、加藤氏が言うように「冷戦」には還元できない面があると思う。加藤氏も援用しているのだが、戦後の原水爆禁止運動における共産党の(主に負の)役割を再構成したクロニクルを作成している方がいるのだけど*4、そのクロニクルを見ると、社会主義国の核を容認どころか時には絶賛までした共産党原水協に対して、社会党、総評、原水禁の側は(その内部には蘇聯派や中国派が入り混じっていたにも拘わらず)〈如何なる体制・国の核にも異議を唱える〉という点でそれなりに筋を通し続けているのだ。
アジア冷戦史 (中公新書)

アジア冷戦史 (中公新書)