アランの帰結

海老坂武『戦争文化と愛国心*1から。
哲学者アラン*2の「平和主義」の帰結。


一九三四年二月六日の右翼諸勢力のデモが暴動を伴い、これ以降フランスの左右の対立は激しくなる。アランの平和主義は当然彼を反右翼、反ファシズムの左翼へと導き、彼は有力な左翼知識人とみなされることになる。一九三四年二月に結成された「反ファシズム知識人監視委員会」の共同署名者の中にはロマン・ロランアンドレ・ジッド。アンドレ・ブルトンらとともに彼の名前が見出される。共産党系の作家(ルイ・アラゴン、ジャン・リシャール・ブロック)が影響力を行使していた「革命的作家芸術家協会」(AEAR)にも加入し、この会に主催により一九三五年六月パリで開かれた「文化の擁護のための国際作家会議」にもメッセージを寄せている。また左翼の雑誌『ヴァンドゥルディ(金曜日)』や『ウーロップ(ヨーロッパ)』誌の常連寄稿者となっている、。(pp.227-228)

また、自らのイニシアチヴでの声明も出している。一九三五年十月、イタリアのエチオピア侵略に反対する声明。一九三八年三月、ナチス・ドイツオーストリア併合直後、フランス政府によるあらゆる予備的募兵に反対する声明。とりわけ注目されるのは一九三八年九月の英独仏三国首脳によるミュンヘン会談への対応である。チェコスロヴァキアズデーテン地方の割譲を求めるヒトラーに妥協するか否かをめぐって仏蘭西左翼は大きく分裂したが、平和主義者もまた二つに割れたのである。
作家ロマン・ロランはダラディエ(フランス首相)とチェンバレン(イギリス首相)に次のような電報を送った。「チェコスロヴァキアの独立と領土保全、ヨーロッパの平和へのヒトラーの侵犯の企てを、緊密な結束と断固とした処置によって阻止すべく民主的かつ強力な協定をただちに獲得すべし」
これを知ったアランらは、「断固とした処置」が戦争を意味するとして、ただちにダラディエとチェンバレンに反対意見を電報で送った。「英仏両国の緊密な結束には期待、軍事的メカニズムの悪循環は反対」
そしてミュンヘン会談がヒトラーの要求を容れて決裂しなかったとき、アランはこれを評価する。それが何であれ平和が維持されたことを評価する。日記には「素晴らしい」と書いている。しかし、戦争は次の年に始まった。そしていったん戦争が始まるとあくまでも戦争を拒否する平和主義者は国賊扱い、時にスパイ扱いされる。アランも例外ではなぅ、たえず警察の監視下におかれた。ただ彼はすでに高齢のため、兵役に従うか拒否するかの二者択一の試練の場に立つことはなかった。(pp.228-229)

アランはナチズムに対して甘かったという批判がある。それは事実だろう。しかし、反戦、非戦というからには、たとえ相手がナチス・ドイツであれ戦争を傍観するのは当然であると言える。そしてこうも言えるだろう。外に対する戦争だけが戦いではない、と。じっさい、アランの戦いはフランスの内部に向けられていた。戦争は外部からだけ来るのではない。戦争は内部から来る。エリート、権力者、軍隊、彼らの抗戦姿勢、洗脳作戦、内なるファシズム、これらすべてが戦争を導き、戦争を支えている。これらとの戦い、これがアランによる平和主義の戦いであった。(p.229)
「平和主義」(pacifism)はたんなる(意見としての)戦争反対とは違う。「平和主義」は正しいことなのか。「平和主義」によって「戦争」の当事者を免罪し「戦争」の被害者を見捨てることはないか。勿論、「内部から来る」「戦争」への批判が重要であることは言う迄もない。