1920年代ジャズ(メモ)

マルセル・モースの世界 (平凡社新書)

マルセル・モースの世界 (平凡社新書)

昼間賢「全体的な芸術は社会事象である――民族音楽学者シェフネル」(モース研究会『マルセル・モースの世界』*1、pp.213-245)


このテクストでは、モースの影響を受けつつ、「ジャズの歴史において」「世界初の本格的な研究書」(p.230)である『ジャズ(Le Jazz)』(1926)をものした民族音楽学者Andre Schaeffnerが言及されている。


シェフネルの『ジャズ』は、ジャズに関する書物どころか、記事もコンサート評も皆無に等しく、レコードもラジオもまだ一般的ではなかった時代に、わずか半年で書かれている。しかも、その間にシェフネルが耳にした「ジャズ」は、ルヴュ・ネーグルの伴奏音楽と、ダンス音楽の「ポール・ホワイトマン楽団*2」と、黒人霊歌の草分け「フィスク・ジュビリー・シンガーズ*3」の三つしかない。(p.231)
以下、「ルヴュ・ネーグル(Revue Negre)」を中心に1920年仏蘭西における「ジャズ」についてメモ。

二〇年代のパリは「狂乱の時代(les annees folles)」*4だった。知識人たちは、現実の傾向が何であれ、本質的には誰もが、共産主義というある種の全体主義への対応を迫られていた。芸術の領域では、芸術は例外的な個人の特権的な表現であるというフランス近代特有の確信がシュルレアリスムの出現とともに揺らぎ始めていた。すでに戦前*5から黒人芸術(art negre)が立体派の台頭とともに流行し、戦争が終わると、アメリカの軍人がもたらした「ジャズ」が瞬く間に広がってゆく。シェフネルとモースの出会いも、シェフネルの側にはそれなりの経緯があったが、要するに、次の一件が決定的だった。二五年の一〇月、パリのシャンゼリゼ劇場に出演したルヴュ・ネーグルの衝撃である。ルヴュ・ネーグルとはニューヨーク発の一種のミュージカルで、主役の踊り子兼歌手が、これを機に一躍有名になるジョセフィン・ベイカ*6だったことと、伴奏のミュージシャンのなかに偉大なサックス奏者のシドニー・ベシェ*7がいたことで知られている。ベイカーは裸同然の――実際には大きな首飾りとバナナの腰巻とダチョウの羽根を身にまとった――格好で、当時の流行だった「チャールストン」を、パリの名士たちの前で踊った。アメリカでは、人種隔離政策がまかり通っていた南部では無論、比較的寛容だったとされる北部でも、アフリカ系の市民が公衆の面前に出ることなどもっての外だった時代である。しも裸で、名だたるシャンゼリゼ劇場で、ということは、半ば芸術として。しかし二〇年代のパリでは、即座に上がったスキャンダルの声も、絶賛の嵐に変わる。格言をひっくり返せば「自分の国以外では預言者にもなれる」ということなのだろう。この一件は、新しい時代の到来を告げる、非常に重要な出来事であり、その場に居合わせたシェフネルは、その象徴性に気づいた何人かの一人だったのだ。(pp.228-229)
それにしては、「ルヴュ・ネーグル」についての仏蘭西語版Wikipediaの記述はしょぼい*8

ジャズは音楽ではない。そう、良くも悪くもそうなのだ。当時の良識派にとっては、音楽以下のものであり、モースの弟子シェフネルにとっては、音楽以上のものだったのである*9。そのような「音楽」が全体的社会事象であるかどうか。狭い意味での音楽、音楽でしかない音楽が全体的社会事象であるとは、無論いえない。しかし、音楽に踊りが加わり、そのなかでそしてそのまわりに言葉が飛び交い、何らかの共同性を帯びた人々の大多数が、全体にかかわる催し物であり祭り事であるとみなす場合、それは全体的社会事象に似たものとなりうる。部分の単なる加算では「雰囲気」は生まれない*10。それは、たとえば、祭りの雰囲気は、その日の天気や、その年の社会状況や、参加者の数、踊りの構成、使用される音楽、人々の衣裳、外部との関係性、等々の条件がすべてうまくいったとき、すべてが一つになったとき、感知されるものである。音楽にたとえれば、同じ奏者による同じ楽曲の演奏でも、雰囲気がある場合とない場合に分かれる。前者では、奏者だけでなく聴衆をも巻きこんだ音楽とともに、一つの全体が生じているだろう。一九二五年のパリに出現した、ルヴュ・ネーグルという名の祝祭は、両大戦間のフランス社会に、音楽とは何か、文化とは何か、そして(未開に対する)文明とは何か、という問いを突きつけ、その喧々囂々は社会全体を巻きこむことになった。そのとき初めて、ある文化が、未開=遅れではなく未知の魅力として、自文化より進んだ異文化として認知されたのだ。そこには、多くの国々を戦争に巻きこんだ文明への激しい嫌悪感と、未開人の搾取に乗じる文明人としての自己反省が介在していた。芸術にたずさわる者たちは、そうした嫌悪感と自己反省を、自ら有する唯一の能力および手段である審美的判断のかたちで表した。それによって、新大陸では概ね無視されていた新しい音楽は、旧大陸では公共の問題となったのである。この機会を初めてとみなすのは、「自分たち」の否定と対をなす「彼ら」への憧れが、太古のアフリカだけでなく新興工業国のアメリカにも向かっていたためである。当時のジャズは、新旧の文化がいずれとも見定めがたく混在する特別な媒体だった。その一つの象徴が、一方ではタムタム、他方ではドラムという打楽器――リズムを刻む道具であることも興味深い。(pp.238-239)

*1:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20120126/1327606307

*2:See eg. http://en.wikipedia.org/wiki/Paul_Whiteman http://www.redhotjazz.com/whiteman.html http://www.redhotjazz.com/pwo.html

*3:http://www.fiskjubileesingers.org/ See also http://en.wikipedia.org/wiki/Fisk_Jubilee_Singers

*4:See eg. http://www.musee-mccord.qc.ca/fr/clefs/jeux/18 http://fr.wikipedia.org/wiki/Ann%C3%A9es_folles_en_France

*5:第一次世界大戦前。

*6:http://www.cmgww.com/stars/baker/ See also http://en.wikipedia.org/wiki/Josephine_Baker http://silent-movies.com/Ladies/PBaker.html http://tjrhino1.umsl.edu/whmc/view.php?description_get=Josephine+Baker http://film.virtual-history.com/person.php?personid=1485

*7:http://www.sidneybechet.org/ See also http://en.wikipedia.org/wiki/Sidney_Bechet http://www.redhotjazz.com/bechet.html http://www.m-konchan.com/html/jazz/contents/sidney_bechet.html http://www.earlyjazz.jp/bio/bechet_sidney.html

*8:http://fr.wikipedia.org/wiki/Revue_n%C3%A8gre

*9:1925年にシェフネルは「パリの名士たちに対してジャズに関するアンケートを行っており」、その最初の質問は「ジャズは音楽であると思うか」というものだった(p.237)。

*10:「全体的社会事象」と「雰囲気(atmosphere)」についてはp.226を参照のこと。昼間氏はそこでCharles Debaene “”Etudier des etats de consience”. La reinvention du terrain par l'ethnologie, 1925-1939” (L'Homme 179, pp.7-62, 2006)を参照している。