そろそろ一周忌

先日亡くなった山口昌男先生*1がこういうことを言っていたのだった;


それから、危機に直面する技術で比較的無視されるけれども重要なのは、ナンセンスだね。日本ではナンセンスとか「笑い」っていうのはあまり評価されない。笑わないのが真の思想家だと思われている。『共同幻想論』の吉本隆明(1924-)*2などという人のいうことにはとにかくあまり笑いがないね。僕なんか笑いのない思想は、死相が現れている方のシソウだと思うんだけど。(『学問の春』*3、p.180)
新書479学問の春 (平凡社新書)

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共同幻想論

共同幻想論

さて、そろそろ一周忌ということで*4西谷修*5の追悼エントリー「吉本隆明氏の逝去に合掌」*6から少し引用;

人は誰でも死ぬ。だから吉本氏が特別だというわけでもない。それに、おそらくもう20年来吉本氏には縁がなかった。以前、駒込に住んでいたときは何度か、駅の近くで白山方向に自転車で走る吉本さんに出くわしたものだった。吉本さん!なんですかいま頃、と声をかけると、あぁ、運動不足だから朝ここまで新聞を買いに来るんですよ、と答えた。だが、いまの住所に引っ越してからはばったり出くわすこともなく、それ以後吉本氏の書くものや発言にとり立てて関心をもつこともなかった。

 それでも吉本さんの死にただならぬ感慨を抱くのは、若いころ一方的に受けた大きな恩義を感じているからだ。わたしやもう少し上の世代の多くの者と同じように、1960年代から70年代にかけて、あらゆる混乱と喧騒のなかで、ものを考えるということ、それも「自立」的に考えることを教えてくれたのは、吉本隆明の著作だったからだ。

 『芸術的抵抗と挫折』『抒情の論理』『擬制の終焉』『言語にとって美とは何か』『自立的思想の拠点』『共同幻想論』『源実朝』『最後の親鸞』『悲劇の読解』『心的現象論』...、政治状況から思想的議論、戦後の日本を揺さぶった激動と混迷のなかで、世界のさまざまな書物を読み、状況と格闘しながら、この人は何ものにも依拠しない「自立」の思想的基盤を、みずからの営みの根本である「言語表現」に認め、言葉の発生から日本の現代の表現までを一貫して考察する『言語にとって美とは何か』を書き上げた。そして日本の制度性・政治性の基盤をなす「共同幻想」に取り組み、やがてさらに個的・私的な「心的現象」を扱う。それは日本という世界の片隅で、「輸入思想」に身を預けず(あるいは憑依せず)、文字通り「独力」で全世界に拮抗する思想を構築しようとする壮大な野心の展開だった。

 吉本さんはマルクスには基本的に同意しながら、その方法を言語表現や心的現象に応用し、ソシュールニーチェフロイトや、当時はやりのフランス実存主義の向うを張ろうとした。わたしがまったく無根拠にフランス文学の世界に踏み入り、フランス思想などをやるようになったについても、実はひそかな機縁がある。少なくともわたしは、当時の外国文学者に対する吉本さんの厳しい批判を呑み込むことから、いまにいたる仕事の道に入った。

 戒めのひとつは、ひとの褌で相撲を取らない(外国の虎の威を借る狐にならない)こと、もうひとつは、知的探求をアクチュアルな課題と切り離さないこと、等々。

 いまではわたしは吉本さんの行き方に同意していない。それは基本的には、「近代」の世界化状況のなかでの思想的交錯やその展開について、そしてそのなかに自分をどう位置づけるかについて、わたしが吉本さんとは違う考えをもつようになったからである。

芸術的抵抗と挫折 新装

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悲劇の解読 (ちくま学芸文庫)

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山口昌男先生に戻ると、『北海道新聞』が伝える故郷での反応が興味深い;

山口昌男さん「美幌町の町の誇りだった」 町内で惜しむ声

(03/12 16:00)


 【美幌】10日未明に死去した、美幌町出身の文化人類学者で文化功労者山口昌男さんを悼む声が町内の関係者から上がった。世界的な活躍ぶりに「美幌町の誇りだった」と口をそろえ、その死を惜しんでいる。

 美幌大谷幼稚園園長で観照寺前住職の宇都宮観周さん(82)は、旧制網走中(現網走南ケ丘高)入学から戦後、新制の旧網走高を卒業するまでの6年間、山口さんと汽車で通学した。

 「(中学、高校時代の)仲間とは『(山口さんの)病状はなかなか厳しいようだ』という話はしていた。でも亡くなるなんて。寂しいね」と話した。

 いつも英単語のカードを手に勉強する姿が印象的だったと振り返り、「一言で言えば、努力家。それが(学問の分野での)成果になったのでしょう」。

 ともに通学した仲間の一人、寺崎忠志さん(81)も「(山口さんは)成績が良く級長を務めていた。戦時中なので軍事教練の時には号令をかける立場だったが、威張ったりせず穏やかな人だった」と懐かしむ。

 卒業以来、会うことはなく、山口さんが講演のため何度か美幌を訪れた際も、終了後に知ることがほとんどだったという。「せめて、そのときに会えていれば」と残念がる。

 土谷耕治町長は2011年10月、山口さんが学長を務めた札幌大学で、学生を相手に特別授業を行った。政府が山口さんの文化功労賞受賞を発表した直後だった。

 授業の冒頭「『山口さんは美幌町出身、誇りに思っています』とあいさつしたのをよく覚えています。直接の面識はなかったが、美幌の若者たちの前で、いろいろと語っていただきたかった」と死を惜しんだ。(中原洋之輔、大口弘明)
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/chiiki4/448519.html

そういえば、岩田慶治先生も亡くなったんだ!

文化人類学者の岩田慶治氏が死去 アニミズム復権提唱

(02/18 14:26)


 東南アジアの民族学研究を通じ、アニミズム復権を唱えた文化人類学者で国立民族学博物館名誉教授の岩田慶治(いわた・けいじ)氏が17日午前7時ごろ、肺炎のため京都市東山区の病院で死去した。91歳。横浜市出身。葬儀・告別式は19日午前11時から京都市中京区上樵木町503の1、かもがわホールで。喪主は妻美代子(みよこ)さん。

 1946年、京都大学文学部卒業後、東京工業大教授などを務めた。タイ、ラオスカンボジアなどでフィールドワークを重ね、東南アジアの少数民族を中心に社会構造、農耕儀礼、精神文化を考察。アジア的文化人類学の立場に立ち、アニミズム的世界観の復権を唱えた。
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/dogai/442430.html

最初に読んだのは『東南アジアの少数民族』だったか、それとも『コスモスの思想』だったか。岩田先生の学をフォローしていたわけではないのだが、とにかく〈道としての学問〉(鎌田東二)の人であった。