「オウム」の暴力(吉本隆明)

宗教論争

宗教論争

吉本隆明、小川国夫「宗教論争」*1(in 『宗教論争』*2、pp.193-230)から。


たしかに、凶悪犯罪集団オウム真理教という報道の過熱ぶりは凄まじいですね。僕も、自分のオウム真理教への評価とのギャップを感じています。でも、報道の中でも、教団の内ゲバで殺人があったとか、対立している弁護士一家を外ゲバで殺して埋めたとかいう部分は、あまり僕の関心を引かないんです。こういった犯罪は、普通の市民社会での事件と、あまり次元が変わらないからでしょう。例えば、夫婦の愛憎が極まったり、子供が家庭内暴力を振るったりすれば、近親者でも殺しあうことはあります。連合赤軍事件のように、イデオロギーの対立で殺し合うことも同じです。
しかし、地下鉄サリン事件は違います。まったく無辜で、無関係である人々を、無差別に殺すという前提での殺傷行為です。これは善悪の新しい次元を開いた、かつて人類に類例を見ない殺戮行為ですよ。まさに、善悪の彼岸です。一般大衆の原像を繰り込もうという僕の基本思想から言うと、サリン事件だけは完全に否定しなければならないです。左翼思想でも宗教思想でも「無関係」はない、巻き込んでもいいんだという民衆観を僕は完全否定していますから。しかし、この麻原という宗教家による新たな悪を、思想の中に包括する必要も感じるんです。この二重性が、僕の思想上の問題ですね。
小川 オウムは、無関係に大衆を殺したのではなく、社会を自分たちに敵対する集団として考えていたと言えませんか。
吉本 いや、サリン事件の本質は、撒くほうは覆面をして誰だかわからない、被害に遭うのは全人類の誰でもいいというところにあります。反社会的なテロ行為とだけ考えるのでは、狭く捉えすぎてしまう。もっと宗教的な世界観なしにはできない行為だと思えるんです。
小川 人間性に対する漠然とした悪意の存在は感じます。それを、仏教では業、キリスト教では原罪と、宗教が仮に名付けてきたわけです。その悪意が、とらえどころのない、ぼんやりとしたものだからと言って、軽視していいということは絶対にない。水面下の氷山のように、、案外大きいものだという気がします。しかし、業や原罪を感じた人たちが、何故他の宗教ではなく、オウム真理教へ向かったのかを探る必要がありますね。(pp.196-198)
オウム真理教の暴力の本質を、1996年の段階で、吉本のように的確に掴んだ人はけっして多くなかったとは思う。まあ、それを「人間性に対する漠然とした悪意」と手短に纏めてしまう小川の方がさらに凄いともいえる。また、吉本の場合、その透徹した認識と頓珍漢なオウム擁護が同居している、不可分な仕方で共存しているといえる。今引用した部分でも、例えば「もっと宗教的な世界観なしにはできない行為だと思えるんです」とか、その片鱗が顔を出している。
この、途轍もな酷いが故に、何か裏が、裏の真意があるんじゃないかと思い込んでしまうこと。そうした罠は、かつて知識人たちがスターリン主義の悪を認識しながら共産党や蘇聯国家に魅かれていったことを思い出した。かつて、私は、アーネスト・ゲルナーの”Religion and the profane”*3を踏まえて、

(前略)ゲルナーアンドレイ・サハロフの回想を援用しながら、蘇聯においてマルクス主義への信仰が「破壊された」のはスターリンによる滅茶苦茶な虐殺の時期ではなく支配がマイルドになったその後の「停滞」期だったと述べている。スターリン時代にはどんな残虐な所行もユートピア実現のためには「遺憾ではあるが必要な」こととして理解されていた。逆に「血を伴わずして」ユートピアを実現することは不可能であるとも信じられていた。その後のブレジネフ時代に「同志たちが殺しを止め、相互に賄賂を送り合うことのみを始めたときに」「信仰」は衰退した。そして、ゴルバチョフ時代にはマルクス主義イデオロギーが「皇帝の新しい衣」にすぎないことが俄に明らかになってしまった。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20111002/1317520950
と書いたことがあった。