何故「聖書」を読んだか(吉本隆明)

宗教論争

宗教論争

吉本隆明、小川国夫「新共同訳聖書を読む」*1(『宗教論争』*2、pp. 155-191)から。
吉本の発言;


僕が聖書を読み始めたのは別に曰く因縁があってとか、特に意図的にとかいうことはないんです。やっぱり一番最初には、戦争が終わった直後の、世相の混乱も、思想の混乱も、文学の混乱も全部反映する形で、自分自身もどうしていいかわからないみたいなところがあった時に、最初にぶつかったんじゃないかなと思うんです。強いて文学のところでそういうきっかけを僕らに与えた文学者を想定すれば、太宰治という人だと思います。今でも太宰治の『駆け込み訴へ』なんていう聖書を主題にした作品はとてもいいものだと思います。太宰治の聖書の読み方は、また一種独特だから、正確かどうかとかということになってくれば、いろんなことが言えるわけでしょうけども、あの人が僕らに聖書のある読み方をそういう混乱期に示唆してくれたと思ってます。仏教の本も結構読んだりしたんですが、同時に、教会に行って牧師さんのお説教を聞くということもあって、戦争が終わってから、まず四、五年のあいだにきっと、一番一生懸命に――丁寧にという意味じゃなくて――生きる死ぬとか、どうしたらいいかわからないとかいう、そういう意味で読んだんだと思うんです。それで、自分なりの聖書というものを論じてみたいというふうに、だんだんなっていったように思ってます。(pp.171-172)