”Truth Will Take care of Itself”(メモ)

渡辺幹雄「「自由は気遣え。真理は放っておけ」」『本』(講談社)435、2012、pp.12-14


タイトルはリチャード・ローティ*1のインタヴュー集Take Care of Freedom and Truth Will Take Care of Itselfから。
抜き書きしてみる;


(前略)真理を洞察してそれを護持することが合理的であるという真理愛は、非常に根が深い。二〇世紀、多くの哲学者は物理学こそ真理を明かすが故に特権性を有すると信じたし、ローティもまたそのような思想的潮流に身を置いていた。さらに、この真理愛は科学至上主義者の独占ではない。物理主義の存在論的地平を掘り崩した「大陸系」の哲学者さえそこから自由ではない。例えばローティが揶揄するように、デリダ脱構築ディスコースやテキストの可能性(不可能性)の条件を余すところなく明らかにしたとか、それは存在論的真理であって厳密に超越論的に照明されているとか、大方提灯持ちが宣うときなどがそれである。ここでもまた、真理は我々が頭を垂れるべき偉いもので、真理の洞察がたいそう立派なことだとされている。
(略)ローティはこうした真理愛を持ち合わせていない。真理が何かしら超越的で、普遍的で、我々の意思ではどうすることもできないものだとすれば、そんなものは我々のリーチを超えているからである。彼にとって真理を説くことは信仰を告白することと同じである。人はしばしば、うまくいった信念を真理と呼び、それを定式化・演繹する言語を真理の鏡と見なすのである。真理とは物象化(reification)された言語である。この物象化はしばしば我々をアポリアに陥れる。物理学を物象化して決定論が、道徳の言語を物象化して自由意志論が。双方の言語とも我々の社会的必要の反映にすぎないが、これを真理に物象化することで存在しない矛盾を招く。単に、野球とサッカーは同時にできないという自明なことなのに。そして、脱構築存在論的/超越論的真理もまた同様。「形而上学」という大悪魔が人類を抑圧しているなどと嘯くのは、デリダが創造した、世界開示的で、詩的で、はなはだ魅力的な言語の悪趣味な物象化である。(pp.12-13)

真理を語るとき、人はただ、おのれが真理であると信じていることを説いているにすぎない。真理の政治がしばしば悲劇をもたらす理由はそこにある。宗教戦争は言うに及ばず、共産主義者がおのれの同胞に対してあれほど残酷になりえたのは、彼らがマルクスの真理(と考えるもの)に帰依していたからであろう。真理が我々の意思を超えるものである以上、そして合理性が真理を受け入れることである以上、我々は一切の残虐から免責されるからである。強いて言えば、我々が責任を負うべきは真理に対してであって同胞に対してではない。
それにしても、この真理愛の心性はどこから来るのだろうか。おのれを超える、普遍的なものへのマゾヒスティックな憧憬か、真理を啓示されたという選民意識か。それとも、真理の名の下にはあらゆる無慈悲と残酷が免責・贖罪されるという開き直りか。こうした心性から解放された政治は、ローティによれば連帯の政治である。我々が責任を負うべきは絶対的他者としての真理ではなく、どこにでもいる他者、つまりは我々の同胞の自由と幸福である。そこでは、合理的であるとは会話を続けること、マナーを守り、他者の話に耳を傾け、冷静さを失わないことである。晩年のローティは臆面もなく功利主義者を自任していて、連帯の政治はもっぱら我々の幸福の増進に主眼を置くべしと説く。政治的リベラリズムをマナーとする一方、功利主義を掲げる点で、ローティは後期のロールズとも本質的に異なるかに見えるが、ロールズ功利主義批判がほとんど失効し、それ自体がミニマム功利主義とも呼べる性質が明らかになっや今*2、ローティの功利主義道徳はロールズの正義論を補完するものと、見ることもできる。
初期のロールズが惚れ込んでいたカントとは違って、ローティは道徳の問題を理性ではなく感覚の問題と捉える。晩年にかけてにわかにヒーローとなったのはヒュームで、豊かな情操と想像力を育むことが、道徳の進歩にとって不可欠であることが説かれる。ロールズの中にいまだに残る自由原理主義の影、正義の原理からこぼれ落ちる不正義への鈍感さなど、そのマイナス面を払拭するには、豊かな道徳的感受性が求められよう。どうやらローティは、近代の権利の道徳を品位(decency)の道徳に転換しようとしているようだ。様々な権利は、それをどう規定しようとも不正義を解消しはしないだろう。ロールズは第二原理をもって自由権の行使から帰結する不正義を取り除こうとするが、それがノージック的残酷さを一掃できると考えるのは幻想である。飢えた子供の傍らで高価なワインをたしなむ自然権論者の自由を掣肘できるのは、小難しい権利論ではなくて情操論なのだ。ローティなら、純粋実践理性批判よりも『マッチ売りの少女』をお勧めするのは間違いない。
品位のある社会を唱えるという点で、老いたローティはオールド・リベラルに接近しているのかもしれない。狼の自由は羊の死であること、自由は平等のためにも、あるいは幸福のためにも制限されることがあると説いたのはバーリンであった。そして正義でさえ、友情や愛情のために制限されることがあるだろう。真理の政治とは違って、品位の道徳、連帯の政治には絶対善(絶対悪)は存在しない。政治は絶対者による贖罪ではない。すべてが相対的である。同胞の幸福を顧みてつねに諸価値のバランスを取ること、彼らの苦痛、屈辱、不幸に敏感であること、これを可能にするのは、豊かで精妙な道徳感覚である。(pp.13-14)