宮台真司on プラグマティズム

最近プラグマティズムに言及したのだが*1


宮台真司ロールズ自身が冷戦体制終焉の後で正義についての議論に加えた小さくない修正」『scripta』(紀伊國屋書店)18、2011、pp.54-57


これはジョン・ロールズ『正義論 改訂版』への書評なのだが、リチャード・ローティ*2 に触れつつ「プラグマティズム」について語っている部分をメモしておく;


いわく、人権をいかに根拠づけられるかについてのプラトン主義的抽象論が喧しいが、米国は一九六五年まで黒人を人間に数えなかったのであり、笑止だ。抽象論に淫するより、黒人を人間に数えずにはいられないように感情教育を施すことの方が、圧倒的に重要だ……。
教育哲学者ジョン・デューイの、リベラルな社会を存続させるための「体験を通じた成長」としての「教育」。社会学者タルコトットパーソンズの、経済回って社会回らずという事態をもたらさないための価値セットを、成長環境を通じてインストールする「社会化」。
こうした議論につらなるローティの主張は伝統的だ。ただし社会システム全体として見たとき、「社会化」ないし意図的社会化としての「教育」の主体は、個人というより共同体である。個人は、受け継がれてきた価値を若干の変更を加えて受け渡すエージェント以上にはなれないのだ。
ローティの感情教育論は、社会学者(例えばパーソンズ)と同じくそのことを踏まえた上で、人権の本質論に淫するのではなく、人権を誰に適用するかという情動の「越えられない壁」を変更する実践の類を、プラトニズムに対置して、、プラグマティズムと呼んできた。
その意味で、ラルフ・エマソン→デューイ→ローティという具合に、より良い社会に貢献しようとする「内なる光」の、灯火を受け渡し続ける、米国超越論哲学に連なる実践(を重視する立場)こそがプラグマティズムであり、世に訳される「実用主義」とは何の関係もない。(p.56)