桑野隆『バフチン』

バフチン (平凡社新書)

バフチン (平凡社新書)

桑野隆『バフチン*1を昨日読了。


はじめに――エピステーメーの転換


第一章 不可欠な他者
第二章 交通のなかの記号
第三章 ポリフォニーと対話原理
第四章 脱中心化
第五章 民衆の笑い
第六章 カーニヴァル化とグロテスク・リアリズム


おわりに
バフチン略年譜
主要参考文献

ミハイル・バフチンの生涯を辿りつつ、その理論的な営みを一望する試み。副題は「カーニヴァル・対話・笑い」。「バフチンの著作をまったく読まれていない方々」を「念頭においている」というが(p.239)、そういう人には本書の詳細な叙述は少し煩雑というかマニアックすぎるのかも知れない。勿論、その煩雑さをちょっと我慢してよく噛み砕けば、本書が美味しい本だということを納得することは難しいことではないと思うけれど。
バフチンの理論のエッセンスというのは、上に提示した目次やサブタイトルの通りだろう。だから、ここで改めて云々することはしない。特に私の目を惹いた箇所を幾つかメモしておきたい。
バフチンは晩年に至るまで西側では無名の存在だった。バフチンが西側というか世界的に知られるようになったのはジュリア・クリステヴァの紹介によるところが大きい(pp.14-15)。それもあって、バフチンの「対話原理」や「ポリフォニー」の理論はクリステヴァを嚆矢とするintertextualite(「テクスト相互連関性」/「間テクスト性」)理論の「先駆」と看做されることが多い。しかし、「intertextualiteは、バフチンのいうポリフォニー(や対話原理)を活かしている部分があるにしても、両者は完全に同一というわけではない」(p.16)。「ポリフォニー」にとって重要なのは、「たんに声や意識、ましてテクストが「複数」あるということ」ではなく、「作者と主人公が「対等な」関係にあること、かれらの声が「融合していない」こと、そしてそうした声や意識が組み合わさって出来事という統一体をなしているということである」(p.17)。「よりたいせつなのは、声の複数性ではなく、作者と主人公のあいだの距離のとり方なのである」(ibid.)。
さて、バフチンの「笑い」論とアンリ・ベルクソンの「笑い」論は、そのスタンスにおいても、「笑い」の質においても、対極にあるといっていい。ベルクソンの『笑い』の訳者である林達夫*2ベルクソンの「笑い」論を寧ろ非ベルクソン的乃至反ベルクソン的であると批判していた。「閉じられた道徳律」と「開かれた道徳律」ということがあるけれど(『道徳と宗教の二源泉』)、ベルクソン的な「笑い」は〈開かれた笑い〉ならぬ〈閉じられた笑い〉になっている! バフチンラブレー的な「笑い」が〈開かれた笑い〉に属するということはいうまでもない。本書によれば、バフチンベルクソンの「笑い」論を意識し、批判対象として精読していたのだった(pp.182-185)。
笑い (岩波文庫 青 645-3)

笑い (岩波文庫 青 645-3)

道徳と宗教の二源泉 (岩波文庫)

道徳と宗教の二源泉 (岩波文庫)

反「社会主義リアリズム」*3 としての「グロテスク・リアリズム」。「日常生活の自明性に疑問を投げかける方法として〈民衆的グロテスク〉の伝統を活かそうとする点において、ロシア・アヴァンギャルドバフチンは軌を一にしていた」(p.222)。「もっとも、バフチン自身はロシア・アヴァンギャルドカーニヴァルの関係については言及していない」が(p.223)。さらに曰く、

見方によっては、バフチンも一種の「表現主義論争」にくわわっていたのであり、〈グロテスク・リアリズム〉は「リアリズムとは何か」にたいするひとつの回答であったわけである。その「隠れた論争」の相手は、いうまでもなく〈社会主義リアリズム〉であった。
この〈社会主義リアリズム〉にたいしては、メイエルホリドやエイゼンシュテインのような芸術的実践による対抗者はわずかながらいたものの、思想家・理論家として〈論争〉しえた者になるとその名を浮かべることはむずかしい。それほどに圧倒的な暴力をもって抹殺されていたわけである。エイゼンシュテインにしてもすでに三〇年代なかばに「表向き」は自己批判していたし、メイエルホリド劇場は三八年一月に閉鎖され、当人も三九年六月に逮捕、四〇年二月に粛清されている。
このような状況下で一九四〇年にバフチンが〈グロテスク・リアリズム〉を前面におしだした「リアリズム史上におけるフランソワ・ラブレー」を書きあげたことは、考えてみるに、まことに大胆きわまりない。(pp.224-225)