貨幣と穢れ

「お金の成り立ちとその背景 -NHKスペシャル「ヒューマンなぜ人間になれたのか第4集」より-」http://d.hatena.ne.jp/shavetail1/20120301/p1


以前言及したときは「ネアンデルタール人」に関してコメントしただけだったのだが*1、上記のエントリーの本体に関して、貨幣の呪術・宗教的側面というか禍々しさが等閑視されているんじゃないかという不満を感じていたのだった。
貨幣というものが孕む禍々しさを考える初歩として、新谷尚紀『なぜ日本人は賽銭を投げるのか』から少しメモしていきたい。
「厄年や年祝いに際してみられる銭撒きの例」――


伊勢湾の入口にある神島や、大分県米水津村で行なわれている銭撒きの習俗は、年の数だけお金を撒くものである。四十二歳はまだよいが、六十歳の還暦には大変だという。千円札だと六万円、一万円札だと六十万円も撒かなければならない。百円玉を六十個撒いてもいいのだが、あまりケチケチしてはいけない、笑われるだけだといっている。厄年に厄払いといってお金を撒くとか、ごちそうなどの振舞いをするという民俗は今日も広く各地にみられる。(pp.198-199)
「埼玉県比企郡磯川村大野という村の送神祭」――

毎年四月八日に行なわれる災厄や疫病を除くための祭りで、村の人たちが集まって竹と紙で毎年新しい神輿をつくり、そのなかに米の粉を水で練って固めた粢を納める。そして神輿をかついで行列を組んで村境へと向かう。家ごとに雌竹につけた旗や幟を持ち寄って行列に加わる。辻々に来ると村の人たちはおひねりを神輿のなかに投げ込む。おひねりにはお米や、五十円玉や百円玉が包んである。神輿を村境の都幾川の崖っぷちにおくと、先祖が山伏であったという家の人が刀を抜いてその神輿を突き刺すのである。そしてムカデの害とか疫病とかいろいろな災いが全部村から出て行くようにと呪文を唱えて、神輿を崖下の都幾川へ向かって放り投げるのである。家々から持ってきた旗も雌竹もいっせいに投げ捨てる。そうして村のケガレを祓へ清め安全を祈る祭りとなっているのであるが、(略)神輿に納められた賽銭はどうなるのか。神輿が崖から放り投げられたら、村の子供たちは、争ってそれを拾いに行く。賽銭はいったん捨てられたものだからもう子供たちが拾ってもよいのである。それだけではない。大野の下流に平という村があるのだが、その平の人たちはどうするのか。上流の大野から下流の平に向かってその村境にケガレを依りつけた汚いものを投げ捨てるわけだから、平の人たちは怒って当然である。ところが平の村の人たちはその祭りの最後にいっせいに走って来て、その投げ捨てられた旗棹を一生懸命拾い集めるのである。汚いケガレを依りつけたものをなぜ拾うのかというと、それは縁起がよいからだという。養蚕のコノメ竹に使うと蚕がよく育つのだというのである。(後略)(pp.205-206)
新谷氏の解釈;

一般的には貨幣とはものを買うための経済的な道具であるが、(略)埼玉県の大野の送神祭でも神輿にお金を供えて村境に放り捨てて村の災厄や疫病、つまりケガレを祓へ捨てていることがわかる。神社で賽銭を投げるのも、同じようにきれいな清水の湧く泉にお金を投げ込むのも、厄年の人が厄払いのためにお金を撒くのも、ケガレを放ち捨てて祓へ清めているのだということになる。つまり、貨幣はケガレの吸引装置である、磁石のようにケガレを吸い付ける道具である、ということになる。だから、きれいな清水を前にしてそこにコインを投げ込みたくなる衝動が湧いてくるのも、人々の潜在意識のなかにケガレを祓へ清めたい衝動があるからだと考えることができる。(p.207)

(前略)貨幣=死(ケガレ)、という等式が想定できる。貨幣にはケガレ(死)がいっぱい詰まっているのである。貨幣は死を内在させているものなのである。貨幣は死の隠蔽装置なのである。だから、貨幣はすべてに死をもたらす。すべてを無化するといってもよい。民俗の手近な例でいうと、手切れ金や退職金の例がわかりやすいだろう。手切れ金というのはすべての関係に死をもたらす、無にしてしまうものである。それはなにも男女の間だけではない。あるグループに属していた人がそこから抜けるときにしばしば必要とされるものである。縁切りのための貨幣である。不良グループや暴力団に限らない。会社を辞めるときの退職金も、それは払うのではなく貰うものであるが、縁切りという点では同じ機能をはたしている。(略)どんなに贈与が行なわれても貨幣で支払われればチャラにされ、何の社会的関係も生じない。市場における物品移動が個別の人間関係を生じさせないのは貨幣の力による。貨幣は贈与によって生じる人間関係を瞬時にして無化してしまう道具なのである。(p.209)
なぜ日本人は賽銭を投げるのか―民俗信仰を読み解く (文春新書)

なぜ日本人は賽銭を投げるのか―民俗信仰を読み解く (文春新書)

「退職金」というのは実際には給与の後払いという性格があるのだろう。貨幣は社会関係を「チャラ」にするが、逆に払わないこと、払えないことによって、社会関係(債権・債務関係)は維持されることになる。年季奉公やローン地獄のように、それは債務者の自由をがんじがらめにしてしまうのだが、他方で社会関係を構築・維持するために積極的に金を借りるということもありうる。さらに重要なのは、貨幣が社会関係を「無化する」と同時に(王権や国家といった)大きい非真正的な社会関係に人々を包摂してしまうということだろう。
払いは祓い!*2