村の大正(西山松之助)

承前*1

西山松之助「大正時代の文化生活」『ゆりかもめ』(東京都生活文化局コミュニティ文化部)52、pp.4-7、1995


抜書き。


大正時代は全国各地にまだ、いわゆる地芝居という歌舞伎役者集団があって、農閑期に村々を巡演して廻った。私は村の河原の大きなテント張りの臨時歌舞伎小屋で、一年の間に二・三度芝居を見た。それは三日間ほど演じられ、毎晩レパートリーが替ったので、毎晩見に行った。私の村は旧山陽道の宿場であったので、村には中村伊太郎・伊之助親子の代々続いてきた歌舞伎役者の家があり、春秋の祭りには村の青年が、この人の指導で素人芝居を演じた。
岡山県に近い山陽道沿いの私の村には*2、大正十三年に、はじめて電燈がついた。その頃の村にはまだ狐・狸・雉子・山鳥がいたし、獺もいた。ラジオはまだなく、大正天皇崩御は、小学校の先生が自分で作ったラジオ受信器で受信して知らされたのが、村でのラジオの最初であった。この頃も村の人々は、すべて着物で藁作りの草履をはいていて、洋服や靴の人は巡査と先生だけであった。自動車が通るというので、小学校の授業の途中、国道を姫路の方へ行った自動車を全校生徒三〇〇人余りで見送ったことがあった。
村では江戸以来の祭礼が、春秋とも盛んに行われ、宮座の頭人選びや神輿かつぎ、山車屋台かつぎや、その囃子音曲や唄は祇園ばやしと伊勢音頭で、その歌詞は無尽蔵というほど村の人々が歌い楽しみ、獅子舞を舞う当番の人たちは、夏頃から毎晩のように笛や舞の稽古に励んだ。そうして十二月の報恩講には、寺の仏前に三対の丈余の巨大な立花を造形した。テレビも新幹線もなかったが、今から思うと大正の日本はまだ公害もなく美しかった。(pp.6-7)