延安(『我的中国』から)

我的中国 (岩波現代文庫)

我的中国 (岩波現代文庫)

リービ英雄『我的中国』*1から。


あちらの山の頂にお寺の屋根が連なり、こちらの山の上には石造りの八重の塔がそびえ、そのあいだに、ほとんど「革命」や「建国」の歴史を忘れさせるほど目を喜ばせる景観が、石とはげ山と洞窟住居から成る小京都のように広がる。長征の終着点で、地の果てにあったのが、このような町だったのか。ぼくは久しぶりにおどろきを覚えた。(「革命夢幻行」、p.93)

毛主席[像]のうしろには、厳かな革命紀念館が建っていた。広い駐車場には車はほとんどない。紀念館の前でかつては人民服を着た何千人もの人が列をなして待っていた時代を想像しながら、二十世紀の最後に近い秋の午後に、ぼくらは革命紀念館に足を踏み入れた。
がらんとした最初の展示室には人はいなかった。次の展示室にはようやく五、六人の老人の来館者がいた。
革命を説明する地図とイラストと、毛主席と周恩来と、革命の兵士に変貌した農民の、何か確実な方法をつかんだような明るい表情。革命に加わって「白求恩」に生まれ変わったカナダ人のノーマン・ベチューンの、まわりと違って翳がある西洋の左翼知識人のひきつった顔。朝鮮戦争の英雄で、指導者の中でほとんど唯一、毛主席に反論することができたと言われて、やがては文革時代に七十数回の拷問を受けて、紅衛兵たちに「お前らの時代はまもなく終わるんだ」とはき捨てるように言い放って死んだという彭徳懐の写真。
そして最後の展示室には、山の上から腕を広げる「大救星」の毛主席に解放の喜びを表わしている、しかし納得できる範囲をはるかに超えた明るすぎる表情の、たくましい労働者と、お下げ髪の女兵士の油絵が飾ってあった。
辺境の都市の、建国ではなく革命紀念館に、大陸を半世紀近く覆っていた「美学」がそのまま保存されていた。近代の時間の中ではこの「美学」がついこの間まで大陸の隅から隅までを支配していた。その「美学」の全体性がほぼ完璧に消えてしまった今、大陸に渡ったぼくらはそのことを忘れてしまいがちになる。
がらんとした紀念館の中で、暴力に応える暴力の記憶、本物の希望の明るさと偽りの美学のしつこさなど、次々と二十世紀の歴史の破片が目に飛びこんできた。「革命」はビートルズの歌詞ではなかった。「革命」はゴールデン街インテリの酔った議論の泡ではなかった。「革命」を行うのは、宴会を開くのとは違う、と毛主席は言った。「革命」は、一つの階級がもう一つの階級を倒すための暴力行為なのである、と。
「革命? 革命だって? 建国でしょう」とぼくの言い方を訂正した裕福で安定した生活を営んでいる北京の市民の気持ちが分かるような気がした*2。かれは忘れたかったのだろう。(pp.95-97)
「解放」も「建国」とともにオフィシャルな言い方であろう。今中国で「革命」といえば「辛亥革命」ということになる。