「明教寺」(メモ)

呂承朔「摩尼教文化遺跡尋踪――浙閩考察散記」『書城』2012年2月号、pp.40-44


マニ教*1が中国に伝来したのは、『仏祖統記』によれば「唐武則天延載元年」、つまり西暦694年である(p.40)。唐代からアラビアやペルシアの商人が渡来・定住した中国の沿海部にもマニ教は伝えられ、宋代から元代にかけて、多くの信者を有した。中国に上陸してから、仏教や道教の要素を取り込み、現地化(中国化)が進んだマニ教は、「光明之教義」を「崇尚」するところから、「明教」と呼ばれるようになった(ibid.)。
沿海部における有名なマニ教遺跡は、


蒼南選真寺(浙江省蒼南県括山郷下湯村)
浦西福寿宮(福建省福州市台江区)
晋江草庵(福建省晋江市華表山東麓)


「選真寺」には「選真寺記」という元代の石碑があり、それに曰く、「選真寺、為蘇隣国之教者宅焉」。「蘇隣国」はペルシアであり、「蘇隣国之教」はすなわちマニ教のこと。但し今の「選真寺」は釈尊を供奉する普通の仏教寺院(pp.40-41)。「福寿宮」は普通の道観であるが、ただ正殿に「明教文佛」と「度師真人」を祀る(p.41)。「晋江草庵」は現在石造の殿宇1座しか残っていない。「摩尼光佛」の像あり(ibid.)。
興味深いのは浙江省瑞安市曹村鎮許嶴村にある「明教寺」。 『瑞安県志』によれば、明教寺が建立されたのは「後晋天福七年」(942年)であり、唐末に福建の長渓から曹村に移住した兄弟によって建立されたという。明教寺の建物は文革中に破壊され、その後再建されたものだが、普通の仏教寺院であり、山門には弥勒菩薩と四天王、大雄宝殿には釈尊、観音閣には観音菩薩を祀る。また「東岳殿」には東岳帝君、三官大帝、観音閣には「許真君」といった道教の神も祀られているが、マニ教の神は全く祀られていない。またマニ教関係の文書も全く伝えていない。にも拘わらず、明教寺の関係者はこの寺がそもそもマニ教寺院であったと断言しているという(p.43)。「明教寺」という寺号のほかに証拠として挙げられているのは、この寺は現在禅宗に属しているが、重要な法事における僧侶の法衣がノーマルな中国仏教の法衣とは異質であることである――「頭纏紅巾、身着土黄色対襟上衣、土黄長袴、外披紅色斗篷、脚穿繍花鞋、左手持龍泉宝剣」。また法名が中国仏教や道教法名とは異質であること。現在の明教寺の住職は「明女師太」という71歳の尼僧だが、「明女」というのはマニ教の神格であり、光明の父が光の元素を闇から救出するために流出した第三の使者のこと。「電光佛」、英語で謂うMaiden of Light。「明女師太」は地元生まれで、出家したのは文革後の1978年だが、彼女の回想によれば、中華人民共和国建国の直前まで、地元にはマニ教の信者が存在しており、朝は東の太陽を拝み、夕方は西の月を拝むという儀礼を行っていたという(p.43)。

そういえば、マニ教それ自体についての本は読んだことがなかったのだ。羅馬帝国における諸宗教を概説した小川英雄『ローマ帝国の神々』は当然ながらマニ教についての記述を含んでいる。またマニ教の影響を強く受けた中世の異端「カタリ派」についてのフェルナン・ニール『異端カタリ派』。宮崎市定の『水滸伝』に宋代のマニ教系秘密結社への言及があったのだが、オウム真理教サリン事件を起こしたときに思い出したのは、その宋代の秘密結社のことだった。

ローマ帝国の神々―光はオリエントより (中公新書)

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異端カタリ派 (文庫クセジュ 625)

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