『読売』の記事;
元記事にある写真はたしかに「圓仁」と読めるね。
遣唐僧「円仁」の石版、中国で確認…直筆かも
平安時代前期の天台宗の高僧、円仁(えんにん)(慈覚大師、794〜864年)とみられる名前が刻まれた石板を、国学院大栃木短大の酒寄(さかより)雅志教授(日本古代史)らが、中国河南省登封市の法王寺で発見したことが、わかった。
中国で、遣唐使の足跡を示す史料が確認されるのは、文献以外では2004年に発見された井真成(せいしんせい)の墓誌に次いで2例目。
石板は、同寺のお堂の一つを囲む外壁にはめ込まれていた。大きさは縦44センチ、横62センチ。道教を信仰する皇帝・武宗による仏教弾圧「会昌の廃仏」(845年)の際に、寺の宝だった仏舎利を守ろうと地中に埋めて隠したことが記された後に「円仁」の文字があった。同寺刊行の出版物に石板の存在が書かれているのに、酒寄教授が気づき、今月、現地を訪れて確認した。
酒寄教授によると、当時の中国僧の名を記した文献に同じ名が見当たらないことや、円仁の旅行記「入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)」の記述から、845年に同寺周辺にいたとしても矛盾がないことから、「円仁の可能性が高い」としている。文字の書体が円仁本人の他の文書と似ていることから、「直筆の可能性もある」という。
円仁は、遣唐使船で838年に唐に渡って847年まで滞在。天台教学を修め、廃仏政策によって長安を追われた。多くの経典を持ち帰り、帰国後は比叡山延暦寺の興隆に努めた。
酒寄教授は「困難な状況の中で、舎利を隠すのを手伝う円仁の、徳の高さを示すもの」と話している。
(2010年7月10日10時24分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20100710-OYT1T00296.htm
ところで、唐朝の李氏は老子の末裔を自称していたわけだけど*1、「「廃仏」に関しては、中国で出現した僧綱制度との関係で考えるべきだとも思う。僧綱制度において僧尼は公務員として、寺院は国家機関として位置づけられる。「会昌の廃仏」*2でも佛教が全面的に禁止されたり、寺が完全に廃絶されたというわけではない。大幅な削減である。つまり、金を食う(と見做された)政府関連機関の大規模なリストラという側面もあるのではないか。
そういえば、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100624/1277341659で引用した佐藤弘夫『神国日本』では、「律令制的な人身支配」が「十世紀にはほとんど機能不全に陥」ったとして(p.36)、
と述べられている。「こうして平安時代の後半には、有力貴族や寺院による仁義なき荘園獲得競争が繰り広げられた」(ibid.)。
古代的な律令制支配の解体は、国家に寄生してきたさまざまな人々や機関に対して、深刻な課題を突きつけることになった。支配体制の動揺は、とりもなおさず国家から十分な支援がえられない事態を意味したからである。とりわけ国家公務員ともいうべき貴族階層や、国立大学にもたとえられる有力寺院にとっては、国からの財政援助の途絶は存亡の危機に直結する大問題だった。財政が逼迫した国家機関では、生き残りをかけての本格的な組織改編が始まった。こうしてこの時期、日本最初の本格的なリストラの嵐が吹き荒れることになるのである。(p.37)
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