徐賁「個人良知和公共政治:捷克現象学回顧」(in 『人以甚麽理由来記憶』*1、pp.185-208)からメモ;
最初の部分で述べられているのは志向性(Intentionalitat/intentionality) について。
在現象学那裡、意識総是対某事物的意識、不存在先験的、純主観的意識。所以、意識是一種行為。只有通過這行為、人的主体才会対対象有所意向、有所領悟、有所知覚、有所想象、有所認知。一方面、被意向、知覚、領悟或想象的対象只是因主体才成為”客在”。另一方面、主体是因対客在対象的直覚把握才成為主体。現象学所関心的是人的意識行為之所以成為可能的意識結構問題。這些結構問題所掲示的人的基本意識能力可以是各種各様的、従意向、知覚、想象、到学習和運用語言、美感、真実感、善悪感、所有這些基本的意識能力構成了人之所以人的意識内容。因此、在中欧的哲学中、現象学和弗羅伊徳(Sigmund Freud)的心理分析、雅各布森(Roman Jacobson)的語言結構学、索緒爾(Ferdinand de Saussure)的結構主義語言学等等有着深刻的思想聯系、其実是相当自然的事情。(p.204)
ところで、?街京*2「志向性の問題を再考す」(in 新田義弘編『他者の現象学II』、pp.349-369)を捲っていたのだが、「意識」というのは名詞的でも動詞的でもなく形容詞的なものなのだということに気づく。「志向性」という言葉が先ず意味しているのは、「意識」は常に〈〜についての意識(Bewusstsein von.../consciousness of...)〉としてしかありえないということだ。さて、「「Bewusstsein」という言葉それ自体には動詞形がなく、したがって意識の能動的な働きを強調しておらず、むしろ意識している「状態」の表現に過ぎない」という(p.350)。考えてみれば、独逸語に限らず英語でも、〈意識する〉ということを言おうとすれば形容詞を使って、be conscious ofとかbe aware ofというしかないだろう。また、この表現はof以下のもの(意識の対象)を前提とし、それに依存する表現だということができる。さらに「意識」を表す名詞はconsciousnessにせよawarenessにせよ、形容詞(conscious/aware)から派生したものにすぎない。
- 作者: 新田義弘
- 出版社/メーカー: 北斗出版
- 発売日: 1992/10
- メディア: 単行本
- クリック: 1回
- この商品を含むブログ (1件) を見る